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 日本で有名人や企業が不祥事を起こすと謝罪会見を行うのが一般的ですが、海外から見れば違和感を持たれる場合が多いのが現状です。また、中国や韓国は過去の日本の植民地支配に対して、謝罪を求め、日本が非を認めても「心が足りていない」などといって謝罪要求を繰り返しています。

 日本に長く住む外国人や知日派の外国人たちの多くが「ご迷惑、ご心配をお掛けし、お騒がせして申し訳ありません」と有名人や会社の社長が深々と頭を下げる姿を見て「別に心配も迷惑もしていないのに理解できない」「直接の被害者に謝罪するのはありだけど、公の場で利害関係のない一般国民に頭を下げるのはおかしい」などの声が聞こえます。

 有名タレントが薬物に手を出して逮捕されても、謝罪相手は直接迷惑をかける業界やファンたちで、一般市民にとっては、本当はどうでもいい話です。企業の不祥事では、被害者は株主やビジネスパートナー、直接購入した消費者であって、一般国民ではないはずです。

 ではなぜ、日本には海外から見れば、違和感を持たれる強い謝罪文化があるのかといえば、それは協力関係なしには成り立たない農耕文化が背景にあり、共同体の秩序を保つための目に見えない様々なルールや決まり事があり、その掟を逸脱すると皆が迷惑するという村社会独特の論理が根強く残っているからだろうと思います。

 その村社会独特のモラルコードは、個々の日本人の高い規範や社会秩序を保つのに大いに貢献しています。モラルコードは目に見えない明文化されていない心の世界にあります。たとえば、それを取り払った場合、共同体の掟と関係なく、どのような行動規範を日本人は持てるのかというのは疑問です。

 たとえば、私はフランスに長く住んで理解したことは、法律による支配です。法治国家では当り前のことですが、実は法律は「人間はこうあるべきだ」という前提はあっても、多くは「法律を犯せば罰を受ける」という側面の方が強調されます。

 すると法律さえ守ればいいということで、法律に書かれてないことは何をやってもいいとか、法律の網をかいくぐるとか、法律の裏をかくなどの行為が日常化します。イスラム系移民に対しても「イスラム教の教えより、フランスの法律が上だ」と政府はいいます。

 しかし、ユダヤ人にしろ、イスラム教徒にしろ、彼らが信じるモラルコードは、フランスのリーガルコードよりは上だと考えられています。だから摩擦が起きるわけです。特に多文化社会をリーガルコードだけで運営するのは非常に難しいわけで、アメリカはその最前線にあります。

 豚肉を食べることが禁じられているユダヤ人は、豚肉を食べるのは合法的とする社会で、その人が信じていることは尊重しなければ、衝突や対立が起きます。日本社会のモラルコードでは嘘はいけないのに、嘘も方便というアジア近隣諸国の人には、そのコードは通じません。

 リーガルコードの欧米社会でも、実はキリスト教の価値観によるモラルコードが存在します。たとえば、10月末に起きた英ロンドン橋付近で起きたナイフによる襲撃事件で、服役囚だった容疑者の男は釈放後、更生のため彼をケアをしていた白人青年を殺害しました。

 するとイエローペーパーは、危険人物への厳罰化や移民排斥的な報道をしたのに対して、遺族が「息子の死を政治利用するな」と批判しました。殺害された青年はキリスト教の価値観でもある弱者救済の人道支援活動していたわけで、イスラム系移民批判に繋げてほしくないというわけです。

 これは英国人のモラルコードの高さを示しているもので、リーガルコードを超えたものです。英国では過去に子供を殺害された母親が、容疑者に対して一生刑務所で過ごすより、一生社会に尽くす人間になってほしいと訴えた話がありました。これもキリスト教の赦しの精神からきたものです。

 日本人が国民に向かって謝罪しているのは、共同体の秩序を維持するための目に見えないモラルコードを逸脱したからで、違法行為という側面だけだったら、刑に服せばいいだけです。このモラルコードは簡単に取り外すわけにはいきません。それは社会を危険に晒すからです。

 問題はそのモラルコードの中身を常に精査し、普遍性を与えることです。宗教なら教義を学び、日々、信仰生活で修練もできますが、宗教でなければ、時代にあった精査が必要です。特に日本人にだけ通じる常識はグローバル化の中で維持は困難でしょう。

 アメリカ人から日本の謝罪文化を批判された場合、残念ながら日本人は客観性を持って説明できていません。むしろ「そうだ。日本人は謝りすぎだ」と認め、謝らない新生代が登場しています。では個人個人が村社会のルールを脱し、立派なモラルコードを持つことができるのかといえば、それは難しいでしょう。

 ただ、謝る相手を間違えるのも危険です。異なった共同体には、それぞれ異なったモラルコードがあり、そこでは日本の常識を押し通すのではなく、そのモラルコードを理解し、尊重する必要もあるからです。

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