欧州のアメリカをめざす英仏 差別なき多様性国家と反キリスト教的リベラルの行方
アタル首相とダティ文化相
フランスで発足した史上最年少の34歳のガブリエル・アタル新首相が率いる新内閣はフランス政治の右傾化を明確に示しています。マクロン大統領の従順な追随者として知られるアタル氏は、マクロン政権で最も頭痛の種と言われる議会の極右勢力を抑え込むための内閣人事の布陣を公表しました。
過去2度の大統領選の決選投票を戦った国民連合(RN)のマリーヌ・ルペン氏はマクロン氏に敗北こそすれ、票差を縮め、2022年の国民議会選挙でRNは8議席しかなかったのを89議席に躍進させ、その勢いはマクロン政権最大の懸念材料です。親の代から反極右、反国家主義のアタル氏起用にはRN潰しが期待されています。
内閣の右傾化は、中道のマクロン政権の特徴である中道右派と中道左派政党からのバランスのいい閣僚起用でしたが、今回は、目立ったところでは左派社会党出身はアタル氏と外相に就任した元交際相手のステファン・セジュルネ新外相くらいで、残りは右派系閣僚で占められています。
フランスにおいて右派か左派かの違いの一つは、カトリックが運営する私立学校出身か、政府が管理する公立学校出身かですが、アタル氏自身はパリの有名私立校出身でアタル氏の後任となったウデラ・カステラ新教育相は子供を私立校に通わせており、就任以来、批判されています。
同時にフランスの指導者が白人フランス人から人種の多様性にシフトしているのは明白です。そのシンボルは文化相に就任したラシダ・ダティ元仏法相・パリ7区区長で、彼女はモロッコ移民とアルジェリア移民の両親を持つアラブ系で、サルコジ政権で鳴り物入りで法相になった人物です。
政治的野心のある者を次々に閣僚に起用したサルコジ氏自身、ハンガリー元小貴族の父親とギリシャ系ユダヤ人の母親のもとで生まれています。女性でアラブ系で野心満々のダティ氏の閣僚起用はフランスの多様性を進める追い風になりました。
今回、首相に就任したアタル氏の父親は信仰を持たないユダヤ人、母親は元貴族の白系ロシア人でロシア正教徒です。同性愛を公表するアタル氏は5年間付き合ったセジュルネ氏(38歳=元大統領顧問)を外相に任命しました。
多様な民族、多様な宗教、多様な性志向は、フランス政界では右派のRNのトップ、ジョルダン・バンデラ(28)でさえ、アルジェリア移民の血をひいています。今やアラブ系、アフリカ系出身者を起用するのは政治だけでなく、テレビメディアでも朝のバラエティー司会者までアラブ系が増えています。
フランスは英国同様、欧州のアメリカと言われるほど多様な民族の集合体と言われますが、英仏とものアフリカ人を奴隷化した過去があり、アフリカ系、アラブ系、インド系への差別が消えたのは最近のことです。英国ではインド系のスナク首相、パキスタン系イスラム教徒のカーン氏など、旧植民地出身者が政治の中枢に起用されています。
アメリカ同様の多民族国家をめざすフランス、英国ですが、アメリカとの違いは、アメリカが未だにキリスト教的価値観の影響が強いのに対して、英仏は伝統的宗教の影響は非常に限定的でリベラルだということです。この違いは歴史の長い欧州が伝統的価値観へのアレルギーがあるのに対して、アメリカはそれがないからともいえます。
欧州のリベラリズムの行きすぎは、反動としてイスラム排斥、人種差別、LGBT差別など様々な社会問題を招いており、何でもありのリベラリズムが、一方でLGBTを擁護しながら、一方で保守的価値観(アタル氏の学校の制服復活)などの矛盾が浮上し、右傾化を抑えるよりアタル政権発足で右傾化が加速する恐れもあります。
フランスで発足した史上最年少の34歳のガブリエル・アタル新首相が率いる新内閣はフランス政治の右傾化を明確に示しています。マクロン大統領の従順な追随者として知られるアタル氏は、マクロン政権で最も頭痛の種と言われる議会の極右勢力を抑え込むための内閣人事の布陣を公表しました。
過去2度の大統領選の決選投票を戦った国民連合(RN)のマリーヌ・ルペン氏はマクロン氏に敗北こそすれ、票差を縮め、2022年の国民議会選挙でRNは8議席しかなかったのを89議席に躍進させ、その勢いはマクロン政権最大の懸念材料です。親の代から反極右、反国家主義のアタル氏起用にはRN潰しが期待されています。
内閣の右傾化は、中道のマクロン政権の特徴である中道右派と中道左派政党からのバランスのいい閣僚起用でしたが、今回は、目立ったところでは左派社会党出身はアタル氏と外相に就任した元交際相手のステファン・セジュルネ新外相くらいで、残りは右派系閣僚で占められています。
フランスにおいて右派か左派かの違いの一つは、カトリックが運営する私立学校出身か、政府が管理する公立学校出身かですが、アタル氏自身はパリの有名私立校出身でアタル氏の後任となったウデラ・カステラ新教育相は子供を私立校に通わせており、就任以来、批判されています。
同時にフランスの指導者が白人フランス人から人種の多様性にシフトしているのは明白です。そのシンボルは文化相に就任したラシダ・ダティ元仏法相・パリ7区区長で、彼女はモロッコ移民とアルジェリア移民の両親を持つアラブ系で、サルコジ政権で鳴り物入りで法相になった人物です。
政治的野心のある者を次々に閣僚に起用したサルコジ氏自身、ハンガリー元小貴族の父親とギリシャ系ユダヤ人の母親のもとで生まれています。女性でアラブ系で野心満々のダティ氏の閣僚起用はフランスの多様性を進める追い風になりました。
今回、首相に就任したアタル氏の父親は信仰を持たないユダヤ人、母親は元貴族の白系ロシア人でロシア正教徒です。同性愛を公表するアタル氏は5年間付き合ったセジュルネ氏(38歳=元大統領顧問)を外相に任命しました。
多様な民族、多様な宗教、多様な性志向は、フランス政界では右派のRNのトップ、ジョルダン・バンデラ(28)でさえ、アルジェリア移民の血をひいています。今やアラブ系、アフリカ系出身者を起用するのは政治だけでなく、テレビメディアでも朝のバラエティー司会者までアラブ系が増えています。
フランスは英国同様、欧州のアメリカと言われるほど多様な民族の集合体と言われますが、英仏とものアフリカ人を奴隷化した過去があり、アフリカ系、アラブ系、インド系への差別が消えたのは最近のことです。英国ではインド系のスナク首相、パキスタン系イスラム教徒のカーン氏など、旧植民地出身者が政治の中枢に起用されています。
アメリカ同様の多民族国家をめざすフランス、英国ですが、アメリカとの違いは、アメリカが未だにキリスト教的価値観の影響が強いのに対して、英仏は伝統的宗教の影響は非常に限定的でリベラルだということです。この違いは歴史の長い欧州が伝統的価値観へのアレルギーがあるのに対して、アメリカはそれがないからともいえます。
欧州のリベラリズムの行きすぎは、反動としてイスラム排斥、人種差別、LGBT差別など様々な社会問題を招いており、何でもありのリベラリズムが、一方でLGBTを擁護しながら、一方で保守的価値観(アタル氏の学校の制服復活)などの矛盾が浮上し、右傾化を抑えるよりアタル政権発足で右傾化が加速する恐れもあります。
異文化理解の需要さ増す年 隣の芝は青く見える心理「嫉妬と憧れ」は誤解の原因となる
世界で戦争が拡大する気配を強く感じる2024年、相手を理解することの重要さは増すばかりです。歴史的にほとんどの戦争は相互への誤解や無知が原因で生じる言われ、そこに権力を維持したい為政者の国民を巧妙にマインドコントロールする偽善も加わります。
少しでも対立を避け、共存の道を模索するには、為政者の嘘を見抜いて感情に左右されず、正しく物事を理解することは極めて重要です。そのための異文化理解の肝を知っておくことは政治やビジネスを含め、良好な人間関係を作り、信頼を構築する上で、今、重要さを増していると強く感じます。
異文化理解で有名な「人間はあるがままの世界を見ているのではなく、あるがままの自分で世界を見ている」という言葉は、言いえて妙ですが、「あるがままの自分」とは自分の常識を指します。その常識は小さい時から親や学校などによって刷り込まれたコンテクストを指します。
私個人は5人の子供を日本とフランスで育ててみて、人間はどうやってフランス人になり、日本人になるのか実際に経験しました。その結果、最初は幼児の時、最も身近な存在である親からの影響を受け、親が持つ常識が自分の常識の基礎を作ります。さらに思春期の過ごし方が圧倒的影響を与えます。
「オオカミ少年」の話では、人間はオオカミに育てられたらオオカミになり、オオカミは人間が育てても人間にはなりません。人間はすべての動植物の中で、唯一、成長期の異なった環境や育てられ方が全く異なる人間を作るということです。
例えば、個人の権利や選択の自由を何より重視する価値観を持ったフランスで幼少期を過ごし、その後、何より、集団の中の協調性を重視する日本で思春期を過ごした人間は、日本人より空気を読んだり、斟酌するのは苦手な一方、正直に自分を表現する傾向があります。
さらに道徳的影響も重要です。フランスでは親子や兄弟の間でも食事中に塩などを取ってもらう時に「シット・プレ(お願い)」という言葉をつけ加えること、親や兄弟でもお願いしたことをしてもらうと「メルシー(ありがとう)」と感謝する表現を常に使うように家族間でも訓練されます。
感謝すること、寛容さ、許す心はキリスト教から来る価値観ですが、日本では集団の安定を重視するための社会規範、社会モラルが浸透しています。つまり、育った環境では道徳といった人間の良心の形成も見逃せません。それは成人した後の当人の行動に大きな影響を与えます。
チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』では、盗賊団の頭フェイギンが孤児たちに盗みを教え、子供たちは悪に染まっていく過程が描かれています。人間は育つ環境で良心を失い、悪に染まることがあることを描いていますが、フェイギンは守銭奴で良心のかけらもなく、それを子供たちに教えています。
フェイギンはユダヤ人ですが、当時の英国ではシャークスピアを含め、ユダヤ人は自己中心的な守銭奴として描かれており、それは代々受け継がれるものと見られています。反ユダヤ主義の背景にキリスト教の価値観である、ために生きる奉仕精神や寛容さとは相いれないものがあるのは事実です。
こうして築かれた偏見や固定観念は、簡単に崩すことはできません。われわれは日々、そういった固定観念が作られ、それが偏見となり、異文化理解を遠ざけ、共存を難しくしています。
隣の芝は青く見えるという諺は、英語にもフランス語にもありますが、異文化理解を妨げる要素として嫉妬や憧れに繋がるものです。手に入りそうで入らない状況で使われますが、うらやましい程度の感情なら害はありませんが、劣等感や不快感の感情を引き起こすと害になります。
特に自分の価値を下げると感じる感情を引き起こす可能性があります。それが今の日本で起きています。
アメリカやヨーロッパを追いつけ、追い越せの時代を生きてきた世代なら、欧米はいい意味で向上心を高める学習対象でしたが、ある程度の目標を達成した日本で育った若者は日本人の精神の貧しさを感じさせる外国の例には非常に不快感を感じるようです。
逆に言えば、日本人が自信を失っているために、海外にいい例があっても惨めに感じるだけで、劣等感が先立ってしまうということなのでしょう。日本は素晴らしいというテレビ番組が増えるのも、裏を返せば自信がなくなっているともいえます。
そういった若い世代が見誤っているのは、どの国もいいものと悪いものがあり、悪いものの改善に努力しているという視点です。アメリカが滅びないのは彼らのイノベーション力と正義を大切にする精神です。
私はブルゴーニュ地方でワインの老舗を取材した時、彼らが暖簾に寄り掛かることなく、常にイノベーションを繰り返す姿勢に感銘を受けました。
現状にあるものを自慢し始めると、進化は止まるということです。だからこそ世代交代は重要です。今の対立が深まる深刻な事態を食い止めるのも、心の腐っていない正義感のある若者の力が重要だと強く思う日々です。
史上初の連続で改革に本腰のフランス 大統領も首相も史上最年少、女性の登用、既存政党の解体
フランスでは史上2番目の女性首相ボルヌ氏が任期最長記録を残し辞任し、変わって史上最年少の34歳のガブルエル・アタル教育相が1月9日、首相に就任した。マクロン現大統領も2017年、史上最年少の39歳で大統領に就任し、2期目に入っている。
大革命を実行したフランスは、リスクを伴う大変革に抵抗がない。お隣の国ドイツのような石橋を叩いて渡る慎重さ(臆病さ)はなく、国民投票で決定した事項も議会制民主主義の手続きの煩雑さで、決められない政治が続くこともない。
伝統的ドゴール主義政党であった1976年にシラク氏によって結党された共和国連合も、2002年に時代に合わないとして中道右派大同団結で国民運動連合になり、2015年には現共和党に改編された。政治は時代の現実に合わせて行うもので、伝統や格式にこだわらないのがフランスの政治スタイルだ。
2017年の大統領選挙では、既存大政党の共和党や社会党より、国民は中道のマクロン氏と彼が創設した中道政党の共和国前進が圧倒的支持を集めた。発足したマクロン政権には中道右派、左派政党から閣僚が指名され、政党政治を崩壊させた。
アメリカのプラグマティズムに距離を置くフランスだが、フランス式現実主義が存在し、革命を経験したフランスでは大変革に抵抗がない。無論、大革命事態、多くの犠牲者を出し、憎悪が渦巻いたことは、決して容認されるものとは言い難いが、迅速さは日本も見習うべきだろう。
政治家も官僚も一般的に前例のないことをやりたがらないが、フランスでは特に政治家には、常に革命的成果が求められる。今回、首相に任命されたアタル氏は、昨年8月末に国民教育相に任命され、大規模ないじめ対策を実行に移し、今年はデンマーク式の「共感プログラム」を1,000校に導入する。
結果を求められるのが政治という意味では、国民は結果しか見ていない。激変する時代に対応するには経験則よりも環境変化を敏感に感じる感性を持った人間の採用が優先される。その意味で世代交代は必須と言える。儒教と職人文化、権威主義が世代交代の足かせとなる日本は時代についていけない。
ダイバーシティも同じことが言え、日本の女性閣僚の少なさは先進国トップを維持し、企業の女性管理職の少なさも目立つ。権力と名誉、保身に走る男たちの弱さが国を弱体化させている。
ここで問題になるのは公私混同。フランスでは閣僚経験者が政務官を務めることもあるし、公務では職位は役割であり、地位ではない。東洋では降格という言葉があり、地位は人間の価値と繋がっているが、西洋には希薄だ。英国でも43歳のスナク首相の下の高齢の経験豊かな議員は多い。
一般的に人を育てる原則は、早いうちに責任を持たせることにある。日本では権力を持つ者が支配者という意識が強く、皆で担ぐ方式が未だに残っている。雑巾がけでは人は育たない。下僕の精神が植え付けられるだけだ。公私がはっきり分かれていれば、職位が直接人間の価値を決めることにはならない。
日本では飲み屋で「先生」とか「社長」と呼ばれたいために肩書に子だわる愚かというしかない意識が未だに残っている。改革よりもプライド重視なら、改革が進むわけがない。目的によって職位は変わって行くもので、目的達成に集中すべきと私は考えている。
いずれにせよ、市場初の現象を繰り返すフランスは、変革に向いた国と言えるかもしれない。それでも国として生き残り、発展させるのは容易でないのが今の現実といえそうだ。
「リーダーになるには、人々を第一に、自分の立場を二番目に、プライドを最後に置きなさい。」というのが誰もが納得するリーダーシップで、その意識があれば年齢も経験も関係ないと言える。
共感力の強化が世界を救う ビジネスから外交、いじめ解決まで人の痛みを自分の痛みとする効果
昨年9月から政府の最優先課題として取り組む学校でのいじめ対策の一環として、フランスでは今年1月から1000校を対象に「共感プログラム」が導入されます。教育現場で多発するいじめと自殺に対して、昨年9月以降、いじめ加害者の強制転校命令や最長10年の懲役刑など厳罰化が導入されています。
この共感力、自制心を養うプログラムは、デンマークで実施され、成果を出しているもので、過去20年間に月に数回いじめを受けた11〜15歳の男子の割合は15%から6%に、女子は14%から9%にまで低下した報告があります。昨年、アタリ国民教育相(33)がデンマークを視察し、決定したものです。
教師、生徒を対象にした同プログラムの目的は、人間同士の寛容さや思いやり、相手を尊重すること、精神的強さに繋がる勇気を持つことといった基本的な人間としての価値観を教えることです。人間は共存関係にあり、お互いを認め、他者を差別、排除しないことを共有することで、共感力の強化と自制心を習得するプログラムです。
実は共感力は、欧米のビジネススクールで教えるリーダーシップ、マネジメントのコアスキルであり、今起きているウクライナやイスラエルの戦争でも問題解決に大きな影響があると考えられています。同情は上から目線で相手に惨めさを味わわせる可能性がある一方、共感は同じ立場に立って支援することで、人間関係構築に大きく役立つと言われています。
共感を持つことを「その人の立場になって考える」と日本では言いますが、アメリカには「他の人の立場で1マイル歩く」という慣用句があります。他の人が経験していることを理解する能力であり、ある状況が他の人に何を感じさせたのかを感じることができるスキルで、その人の経験、課題、さらには思考プロセスをより深く理解することです。
能登半島震災で、多くの人が家とライフラインを失い、暖を取れず、食べることもままならない報道が繰り返される中、その人たちに寄り添い、理解し、支援することに共感は欠かせません。一方、同情は、他の人に対して悲しみを感じること、他人の不幸を憐れむという意味もあります。
この 共感と同情の英語の語尾「-pathy」は、ギリシャ語で「苦しむ」を意味する「pathos」に由来しています。これら 2 つの感情は似ていますが、いくつかの違いがあります。同情を感じている人は、他人の喪失が自分にとって何を意味するのかを完全には理解していない可能性があります。共感とは、自分自身の経験に関連して、他の人が経験していることへのより深いつながりを持つことです。
教育現場での人格形成活動を通じて、教師たちは「自分がしてほしいように他人に接しなさい」というモットーを共有することがよくあります。生徒たちに同情心と共感力の両方を教えるには、モデル化を通じて行うことが有効と言われています。
教室内の誰かが、親が離婚するなど喪失感を経験したとき、教師が同情的に反応するのを生徒が見たら、生徒も同じように反応するかもしれません。一方、共感を教えるには、多くの場合、教育者が声を上げて考え、生活の中で新しいスキルやストレス要因に苦しんでいる人に対して思いやりのある方法で反応する理由を生徒に説明することが必要です。
職場でも共感力はリーダーだけでなく、同僚同士でも非常に有効なスキルです。それは1回教えれば習得できるものではなく、頻繁にトレーニングする必要があります。言語の習得同様、繰り返しの実践の中で、自然に共感し、適切な対応がとられる性質のものです。
感情的な反応を教えるための最良の方法の 1 つは、良いロールモデルを示すことです。また、似たような状況を経験した人と感情を共有することで相互理解が深まります。
世界中の弱小国を債務の罠にかけようとする中国は、かつて貧しかった頃の経験を引き合いに出して、貧困に苦しむ地上国に寄り添うポーズを見せながら、返済不能な規模の支援を行い、返済不履行を理由に湾岸施設などの支配権を獲得しています。
これは共感力を悪用して、相手を手中に収めているわけですが、冷静に考えれば、中国が貧しさを心の底から学習しているのであれば、貧しい国への支援には返済不要な支援、技術供与、適切なガバナンスを教えているはずですが、そうではありません。
では、共感力を鍛えるには何が必要かと言えば、一つは聞き上手になることです。一般的にはアクティブリスニングの手法を使い、確認と共感のフィードバックで相互理解を深めることです。さらに相手の置かれている状況を思い描くこと、問題解決のために同じ目標を共有すること、相手との違いを正確に把握すること、人間は多様な生き物であることを認めることなどです。
共感力は海外駐在する人たち、職場がすでに多文化な場合、ジェンダーの多様化が進んでいる職場、人種や宗教など多様な価値観が存在する職場などでは、特に必須です。一般的に挫折経験のない優秀なエリートほど共感力が弱いとも言われています。
共感力が高ければ、今の世界の厳しい状況を前にして、皆が自分が何ができるだろうと考えるはずです。何もできなくても何らかの形で戦争に苦しむ人々に寄り添うことができるはずです。その人の心が世界を変えることを信じたいものです。
デジタルデトックスのドローイング 手作業が与える脳への刺激が思考回路を解放する効果
昨年描いた私のドローイング
40年ぶりに絵画に取り組む筆者には、描くことは今、日常化しています。一方、一見、平面芸術の絵画はデジタル化で立体動画表現が容易になったこともあり、2次元芸術は廃れていくだろうという見方も広がっています。
例えば、漫画やアニメの世界でも、制作はデジタル化し、鉛筆やペン、絵筆を握らないアーティストが大多数を占めています。ところが絵画における「描く行為」は、欧米で再注目され、人間の思考回路への影響やデジタル中毒からの解放効果で注目されています。
宮崎駿は手書きにこだわっていますが、クリエイティブな仕事には描く行為は欠かせないと私は考えています。
個人的に私はスケッチすること、平面に描く行為は、人間の営みの基本と考えています。近代建築の生みの親、ル・コルビュジエは絵画の世界でも素晴らしい作品を残しています。映画監督の黒澤明の絵コンテも彼の芸術的才能を表しています。
スマホが手放せず、1日中、パソコンの前で仕事をし、休息のためのゲームもパソコンゲームとなり、デジタルの世界から解放される日常など考えられなくなっています。しかし、デジタル中毒の心理的弊害、現実感を喪失は深刻なダメージが専門家の間から指摘されています。
ラスコー洞窟の壁画など太古の時代から人類にとって最も古い視覚芸術の「描画」は、デジタルが取って代わることのできない存在であることから再注目されています。英BBCは、そのきっかけはコロナ禍で自宅にいることを強いられた期間に再認識する機会が与えられたことにあると指摘しています。
その理由の一つは芸術というよりも、デジタルデトックス効果だったとBBCは指摘しています。つまり、デジタル化で使わなくなった手の感触による脳への刺激、手の触覚による認知機能の再開発、ひいては癒し効果まで、描く行為は様々な効果が得られることが注目されているというわけです。
日本ではデッサンというとモチーフを正確に写し取る作業と勘違いし、そっくりに描けない人は「自分が絵が下手なので向かない」と言いますが、人間の描く行為がそれだけなら、写真が登場した時点で絵画は廃れていたはずです。確かに1970年代に具象絵画、特にデッサンは衰退しました。
しかし、デッサンはそもそも目の前にあるものを正確に描きとる行為ではなく、そこには描く者の主観が大きな影響を与えます。描くことは自己表現の手段であって、目の前にある花をただ、正確に描くのは現実を認知するという意味で大切ですが、その認知した現実を自分なりに表現するのが芸術です。
芸術に求められるのは描く者個人の唯一無二の創造性に根差したもので、その精神は何ものにも拘束されない自由の保障がなければ成り立ちません。同時に対象物を描く行為はデジタル中毒で冒された妄想の世界から自分を解放してくれます。つまり、地に足のついた現実感を取り戻すこともできます。
人間は視覚から入ってくる情報量が聴覚や嗅覚より圧倒的に多いことが分かっています。その情報を自分の手を通して平面に落とし込む作業のプロセスで、その人の主観が加わり、100人いれば、同じモチーフから100通りのデッサンができるということです。
一方、癒し効果は、例えば、1神教の信者であれば、神が人間のために自然を創造したことを信じているので、神の創造の御業(みわざ)、その聖なる自然を描くことには、感動と癒しがあるはずです。つまり、自然を通じて神を感じることができるという体験は、心に平安と喜びをもたらします。
信仰がなくても、描くことは自分と自分の周りにあるすべての存在と触れ合う機会を得ることになり、自分の心のリセットに大いに役立つはずです。
40年ぶりに絵画に取り組む筆者には、描くことは今、日常化しています。一方、一見、平面芸術の絵画はデジタル化で立体動画表現が容易になったこともあり、2次元芸術は廃れていくだろうという見方も広がっています。
例えば、漫画やアニメの世界でも、制作はデジタル化し、鉛筆やペン、絵筆を握らないアーティストが大多数を占めています。ところが絵画における「描く行為」は、欧米で再注目され、人間の思考回路への影響やデジタル中毒からの解放効果で注目されています。
宮崎駿は手書きにこだわっていますが、クリエイティブな仕事には描く行為は欠かせないと私は考えています。
個人的に私はスケッチすること、平面に描く行為は、人間の営みの基本と考えています。近代建築の生みの親、ル・コルビュジエは絵画の世界でも素晴らしい作品を残しています。映画監督の黒澤明の絵コンテも彼の芸術的才能を表しています。
スマホが手放せず、1日中、パソコンの前で仕事をし、休息のためのゲームもパソコンゲームとなり、デジタルの世界から解放される日常など考えられなくなっています。しかし、デジタル中毒の心理的弊害、現実感を喪失は深刻なダメージが専門家の間から指摘されています。
ラスコー洞窟の壁画など太古の時代から人類にとって最も古い視覚芸術の「描画」は、デジタルが取って代わることのできない存在であることから再注目されています。英BBCは、そのきっかけはコロナ禍で自宅にいることを強いられた期間に再認識する機会が与えられたことにあると指摘しています。
その理由の一つは芸術というよりも、デジタルデトックス効果だったとBBCは指摘しています。つまり、デジタル化で使わなくなった手の感触による脳への刺激、手の触覚による認知機能の再開発、ひいては癒し効果まで、描く行為は様々な効果が得られることが注目されているというわけです。
日本ではデッサンというとモチーフを正確に写し取る作業と勘違いし、そっくりに描けない人は「自分が絵が下手なので向かない」と言いますが、人間の描く行為がそれだけなら、写真が登場した時点で絵画は廃れていたはずです。確かに1970年代に具象絵画、特にデッサンは衰退しました。
しかし、デッサンはそもそも目の前にあるものを正確に描きとる行為ではなく、そこには描く者の主観が大きな影響を与えます。描くことは自己表現の手段であって、目の前にある花をただ、正確に描くのは現実を認知するという意味で大切ですが、その認知した現実を自分なりに表現するのが芸術です。
芸術に求められるのは描く者個人の唯一無二の創造性に根差したもので、その精神は何ものにも拘束されない自由の保障がなければ成り立ちません。同時に対象物を描く行為はデジタル中毒で冒された妄想の世界から自分を解放してくれます。つまり、地に足のついた現実感を取り戻すこともできます。
人間は視覚から入ってくる情報量が聴覚や嗅覚より圧倒的に多いことが分かっています。その情報を自分の手を通して平面に落とし込む作業のプロセスで、その人の主観が加わり、100人いれば、同じモチーフから100通りのデッサンができるということです。
一方、癒し効果は、例えば、1神教の信者であれば、神が人間のために自然を創造したことを信じているので、神の創造の御業(みわざ)、その聖なる自然を描くことには、感動と癒しがあるはずです。つまり、自然を通じて神を感じることができるという体験は、心に平安と喜びをもたらします。
信仰がなくても、描くことは自分と自分の周りにあるすべての存在と触れ合う機会を得ることになり、自分の心のリセットに大いに役立つはずです。
中国批判できない能登地震 地域格差是正の鍵は真の豊かさを競うことでは?
新年早々に起きた能登半島地震は、津波の規模が東日本大震災程でなかったことから、現時点では犠牲者の規模は小規模にとどまっている模様です。国連を始め世界中から日本に寄り添う声が寄せられ、ありがたいばかりです。同時に倒壊した家屋の多さについて考えさせられるものがあります。
東日本大震災発生時、欧米メディアは専門家の話として、経済ダメージが限定的と分析したことを思い出します。根拠は被災地の経済活動の規模は日本全国で見た場合、東北地方は大きくないからでした。人口数百万から一千万人を超える大都市が含まれていた場合は経済ダメージは深刻になるとの見方です。
今回も同様なことがいえますが、改めて日本が先進国とは言えない一極集中の新興国型を脱していない現実を思い知らされました。日本では、例えば中国が世界第2位の経済大国になったにも関わらず、地方には驚くような貧しい地域が多く、経済協力開発機構(OECD)の調査では貧富の差を表す時のジニ係数で中国は全44カ国中5番目に高く、ブラジル、インド、南アフリカなどの新興国と同じ水準です。
それを見て、国内総生産だけでなく、貧富の差を見れば中国が貧しい国と批判する日本人は少なくありません。これは人口で中国を抜いたインドも同様ですが、では日本は経済力で世界第2位を続けた期間に完全に先進国になりえたのでしょうか。
経済発展度を示す、もう一つの指標の人口1人当たりのGDPを見ると、日本は2022年時点で27位で上位は北欧や欧州の小国、米英仏などが占めています。とはいえ、28位のカリブ海のバハマは面積は福島県程度、所得水準はカリブ海諸国でトップとはいえ、国民の5人に1人が銀行口座をもっていないといった格差も存在します。
正確に豊かさを示す指標はなく、様々な指標を突き合わせる必要がありますが、一つ言えることは地域格差の大きさは貧富の差に次いで先進国の条件に関わる視点です。日本を訪れる外国人観光客の多くは全国で道路や交通インフラが整備され、極端な貧困地域がないことを高く評価しています。
しかし、東日本大震災や能登半島地震の瓦礫を見ると、災害には脆弱な地域が多いことを痛感します。能登半島は、今流行の「移住」でも人気がある地域ですが、格安で手に入れた古民家が倒壊し、困っている人も少なくないでしょう。地震、津波大国で新参災害対策の遅れが表面化しています。
高齢者率が高く、地震に耐えられない重い瓦の古い木造住宅が多く、基礎の脆弱さも手伝って、完全倒壊した家が続出しました。東日本大震災や近くで新潟県中越地震を経験しても、住民の防災意識が高まることはなかったことが判明しました。
ただ、住民を責めるのは間違いで、これは政府が税金をどの地域に費やすかという政治の問題でしょう。日頃の啓もう活動は地方自治体の責任かもしれませんが、結局は耐震補強などの費用負担は自治体の責任範囲を超えています。
進んでいない地方分権、税収を直接自治体が使えない中央集権システム、意思決定の煩雑さなどが長期化し、自立能力を持たない地方自治体と政治の混迷で国家の弱体化が進んでいます。そこには財政をめぐる既得権益への執着や汚職も発展を阻害しています。
ただ、それよりも日本が新興国型の国を抜け出せない理由は、「ワーク」に極端に偏ったライフとのバランスの悪さが圧倒的に影響を与え、職のある大都市に人口を集中させている問題があります。成功するには大都市に住むした選択肢はないという認識を大多数の人が持っていることが問題です。
私のフランスでの経験を踏まえれば、先進国の要件は金銭ではない「豊さを競う」ことであり、成功の指標も満足度の指標から経済力の比重を下げる必要があります。たとえば最高の財産の一つは子供です。子供から得られる幸福感は何にも代えられません。
大都市に備わっている刺激的アミューズメント施設で得られる喜びは一過性のものです。一方、家族と豊かな自然から得られる喜びは持続可能なものです。圧縮された都市集中型の経済発展モデルから分散が生み出す高い生活の質を追求する社会への転換が日本再生の鍵を握っていると言えるそうです。
そのためにも日本の隅々まで防災対策が施され、安全が保障され、どこでも安心して子育てできる環境づくりに取り組むべきではないでしょうか。この話が語られだして30年が経つフランスでは、リモートワークの普及で、分散現象は加速しています。
リモートワークの功罪の検証 働き方改革、少子化対策から地方活性化、生産性向上は?
コロナ禍で一気に加速したリモートワークは、コロナ明けで、その功罪が問われています。日本の某大手老舗企業は東京大手町にある本社が入っているビルから4フロアを他社に譲ったのが、コロナ禍でフロアが足らなくなり、他の物件を物色中といいますが、簡単ではないそうです。
世界的に見ると米国では、リモートによる在宅勤務がコロナ禍前より5倍に増え、戦後最大の変化をもたらしたと言われています。細かく言うと基本在宅勤務で、週に一回か、月に数回程度出社するハイブリッド型が最も普及していると米ウォールストリートジャーナル(WSJ)は伝えています。
欧州も同様な現象が起き、最もハイブリッドワークが普及したフランスでは、今度は企業側が100%出社で職場復帰を従業員に求めても応じる社員が少なく、苦戦中です。
英国ロンドンで米国に本社のある投資会社に特殊な技術を提供している企業で働く友人はフルリモートで今も働いています。彼は日系金融機関からも転職組ですが、今働く会社は基本全てリモートで採用されると必要な機材を揃える資金として日本円で約200万円まで支給されたそうです。
多くの社員はデジタルノマド(移動しながらネットだけで仕事する人たち)に人気のあるポルトガルに住んでいると言っています。これは極端な例ですが、欧州連合(EU)はリモートワークによって得られる利点に地方経済活性化と少子化対策に大きな効果があるとして、EUの基本本政策の柱に組み込みました。
過疎化している町に多くの人々が移り住むことで、教育施設、郵便局、医療サービス、警察などの住民サービスの復活が実際起きています。
都会から移動した人々は、広い住宅と庭を手に入れ、子供を産む数も増えて、EU全体が抱える労働人口不足の解消にも貢献しています。都市化で軽視された田舎は注目の的になり、仏日刊紙ル・パリジアンは毎年、子育てしやすい町の人気ランキングを公表しているほどです。
子育てに必須の教育、安全、家族支援の充実を人口2,000人以下の自治体が競っている状態です。無論、今後の課題は子供が高校生になると数キロ離れた高校に通学する不便さもありますが、逆に廃れた田舎の鉄道路線の復活やスクールバス導入なども進む可能性があります。
では最大のデメリットは何かといえば、職場に集まって社員同士がお喋りしながら、社員もモティベーションを高めることが出来なくなっていること、特殊な技能習得が必須の職種、集団で働く製造部門などにはリモートは不向きです。
今まで多くの企業がリモートを前提とはせず、仕事の進め方のシステムが構築されていたので、その変更が可能なものとそうでないものがあります。
ただ、欧米でリモートが急激に普及した背景は、基本ワークライフバランスのライフに重きを置いているからこそ、導入が容易だったわけで、ワークに圧倒的重心を置く日本はDXそのものも進まない現実があります。
これは生産性向上と同じで、大多数の人々が最小限働いて最高の利益を得たいと思う欧米では進化を続けていても、長時間労働を苦にしない日本では向上は進まない現実があります。つまり、生きる価値観そのものの問題なので、今の時代の潮流には乗りにくい面があります。
ミレニアム世代への批判は多いわけですが、彼らが次世代をけん引するためには日本人の価値観に大きな変革をもたらしてもらうしかありません。そうしなけれが働くことだけに価値を置く日本は、アジアの新興国、途上国からも嫌われる現象に歯止めをかけられないでしょう。
弱体化した民主主義の強靭化 保守・リベラルの対立軸ではないダイバーシティ効果による解決
今年は中国の武力行使が懸念される台湾の総統選を2週間後に控え、年末には米大統領選も行われます。一方は今、世界で増えつつある独裁的な権威主義勢力に飲み込まれるかを占う選挙であり、もう一方は、その権威主義勢力を抑え込めるかを占う選挙で、両者ともに民主主義の今後を左右する選挙です。
中国の覇権主義は、過去十年間に明確になり、ロシアは民主主義陣営の西側諸国がありえないと考えていたウクライナ大規模侵攻を行い、イランはかつてない規模で中東に緊張をあたえ、北朝鮮はミサイル実験を繰り返しています。この10年間で露呈したのは意思決定の煩雑な民主主義の弱点です。
民主主義を採用する西側が「経済と政治は別物」と呑気に構えている間に、権威主義国家は精鋭化した国家戦略を秘めながら、受けた経済的恩恵を覇権主義に最大限利用している状況です。言い換えれば、経済は政治によって支配されている国の方が、パワフルだということです。
民主主義陣営は、SNSの時代にあって、民主主義に欠かせない民意に関わる意見があまりにも多様化し、統治そのものを困難にしています。一方、中華思想の中国、帝国主義に走るロシア、ペルシャの栄光の復興をめざす、イスラム国家イラン、金一族主義を貫く北朝鮮がグローバルサウスに与える影響は強まるばかりです。
アラブの春で独裁強権を嫌い、民主化を目指した国々が成果を出せない中、迅速に行動でき、価値観を共有しやすく、統治が容易で結果が見えやすい権威主義、独裁政治に魅力を感じる国々は増える一方です。手間暇の掛かる民主主義の忍耐に耐えれない国々は権威主義になびいています。
民主主義を脆弱にしている意思決定の煩雑さは本来、正しい選択肢を導き出すことにあり、間違いを課すリスクを回避するためです。しかし、攻めてくる権威主義の国々は待ってはくれません。ウクライナとイスラエルの戦争を終わらせられないのも国連を始め、民主主義の手法の結果ともいえます。
自由主義陣営の2024年の課題は、行き過ぎた何でもありのリベラルズムによる社会の弱体化をどう抑えるかにあるかでしょう。ところがリベラル勢力は長年、権力や伝統に抗してきたことから、戦う戦力を持っているのに対して、保守勢力は当たり前と思うことを理論化できておらず、リベラルの前に無力です。
しかし、そもそも保守、リベラルの対立軸は東西冷戦の置き土産で、多極化し、ダイバーシティが進む世界の中で意味を失っています。昔流行ったヘーゲルの弁証法哲学は、対立する両者が感情を排除し、理性で問題解決する前提ですが、今は感情のぶつかり合いとキャンセリングカルチャーで相手を否定することしかありません。
ヘーゲルはじめ、近代社会を構築した思想家は極めて理性的で頭で冷静に考えた理論でしたが、一般市民は極めて感情に左右される存在で、彼らが民主主義の中心だとすればカオス化するリスクは否定できません。米連邦議会議事堂乱入事件もその一つでした。
フランスで2017年に誕生した中道のマクロン政権は、保守・リベラル対立が意味をなさないことへの一つの答えでした。その検証はまだ行われていませんが、弁証法の呪縛からの脱却を意味していました。ただ副作用も強く、極右の国民連合よりさらに過激なゼムール運動を生みました。
ハッキリしていることは極右の台頭に国益重視が含まれ、一考に値するものですが、ダイバーシティ効果が問題解決に不可欠なこと否定できません。ダイバーシティの利点はゼロベースで物事を考えられることです。今はこれが重要です。
それがあるアメリカの強みの一つで、今は人類が共存するために答えを出す不可欠な条件です。それも何でもありのリベラルではなく、ダイバーシティは国益、主権統治、道徳性、公正さがなければ混乱を招くだけです。そんなことを1年の初めに考えています。
嫉妬が渦巻く世界での指導力 共感の時代だからこそ共通目標を設定し感謝の気持ちを絶やさない
世界も社会も、あらゆる局面で信頼関係が崩壊の危機に晒された2023年でした。世界のどこを見回しても問題解決力を持つ政治リーダーは見当たらず、首脳が何度集まっても戦争終結の道筋も見いだせていない状況です。先の見えない激動の時代に的確に対処できるビジネスリーダーの不足も懸念されています。
第二次世界大戦や東西冷戦後に禁じられた武力で他国の領土を奪うルールを崩壊させたロシア、政府と異なる考え方を持つ民族などを自国民であるにも関わらず、武力攻撃するイスラエルやミヤンマー、アフリカ諸国の内戦の原因は何かを考える必要があります。
ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻を正当化するため、ナチに乗っ取られているといい、パレスチナ自治区ガザで大量虐殺を行うイスラエルへの批判でも、ナチと同じことをしていると批判する声が聞かれます。つまり、ナチスドイツを率いたヒトラーは悪人として定着しています。
ところがヒトラーがドイツで頭角を現したのは、第1次大戦で敗北したドイツに課せられた多額の戦争賠償金の支払いに苦しむ時代に、高失業率にあえぐ国民に職を与え、強権外交で賠償金支払いを中止させた国民のヒーローでした。むしろ彼の失敗は国民の支持に陶酔し独裁化の道を歩んだからでしょう。
ロシアもまた、世界を2分した米ソ対立の一国だったのに中国の台頭で屈辱を味わい、オバマ政権、バイデン政権の無関心の建前外交で孤立を深めたことから、ウクライナ侵攻を決断し、世界に存在感を示したともいえます。追い詰めたのは政治家だけでなく、経済関係者からもロシア経済を軽蔑する論調が相次いだことも大きかったでしょう。
ロシア、中国、パレスチナ、イスラム勢力には追い詰められた孤立感や嫉妬心が戦争の起爆剤になる可能性があります。そこで考えさせられるのは、ルール違反を犯した者を制裁し、裁くという方法の有効性です。ヒトラーの時は賠償金を課した側である英仏伊などが優位に立つことはありませんでした。
戦後処理のニュールンベルグ裁判で被告となったドイツ軍のリーダーたちは、裁判の不当性を訴え、強く抵抗しました。勝った方が負けた方を正義の名のもとに裁く正当性は東京裁判でも、未だに疑問視されています。加えて国連も国際刑事裁判所も機能しているとは言えません。
人間にとって嫉妬は最大の脅威の一つです。犯罪学でも犯行動機のトップは嫉妬と言われ、人間が対立したり、犯罪に走る最大の原因です。愛を求めて生きている人間社会に嫉妬はつきものですが、嫉妬を動機として行動してしまうことで、いい結果を得ることはないでしょう。
一般社会も同じで、働く職場でも嫉妬は渦巻いています。酒を飲んでガス抜きする場合のガスの正体も嫉妬です。しかし、事態が悪化すると酒では解決できません。
今の時代は共感の時代と言われ、SNS上での評価が様々な世界で影響力を発揮しています。同時に嫉妬も渦巻いており、時にはSNS上の一言で相手を自殺に追い込んだりしています。たとえば、日本人駐在員が遭遇するナショナルスタッフの嫉妬は、会社に大きなダメージを与えます。
そのため、相手に嫉妬心を抱かせない日頃からの注意が必要です。まずは共通の目標を持つことは極めて重要です。異文化でも共有する目標を持つことはダイバーシティマネジメントの第一歩です。異なった考えを持つ人間を無視すること、無関心は相手を追い込みます。
関心を持てばコミュニケーションも増え、人間関係も深まり、常に相手を良い意味で評価し、感謝する姿勢がポジティブな関係構築には不可欠です。
来年は、そんなことを心掛けたいと思っています。
戦争の時代にシャガール再考 天界と地獄の心象風景 平和を祈る迫力
Marc Chagall, Resistance, 1937 -1948, Nice, musee national Marc Chagall. Depot du MNAM. Photo : RMN -Grand Palais (musee Marc Chagall) / Gerard Blot c ADAGP, Paris, 2023
今年、フランスで何度も取り上げられたマルク・シャガールの展覧会は、昨年来、戦争に突入した世界にとって、人の心に癒しをもたらしています。シャガールはユダヤ教とキリスト教を結び付けた画家であり、芸術に本格的な心象風景を持ち込んだ20世紀の画家でした。
彼は現ベラルーシのユダヤ人が半数を占める人口6万5000人のヴィテブスクに1887年に生まれました。彼の故郷はロシア帝政の前はリトアニア、ポーランドの統治を受け、ロシア革命以降は70年近くソビエト連邦に組み込まれ、戦争に翻弄された町の出身者でした。
戦争とユダヤ人迫害の中、1923年にパリに本格的に移住したシャガールは、当時、産業革命と科学の発達で人々が宗教から遠ざかる中、きわめて宗教的なテーマに取り組んだ稀有の画家でした。同時代にキリスト教信仰を全面に出した巨匠と呼ばれる画家はルオーくらいです。
フランス北部のルーベ市にある芸術産業博物館、ラピシーヌ美術館では「自由の叫び。 シャガール、政治」と題した展覧会が2024年1月7日まで開催されています。戦争に振り回される今の時代にシャガールほどふさわしい画家はいないと思われます。
シャガールの多くの作品は、様々な心象風景が宙をさまよっています。ミケランジェロの「最後の審判」のように、目で見た自然界ではなく、まるで霊眼で見た世界を作品にした神秘主義的画家でした。
日本では知られていませんが、偶像崇拝を否定したユダヤ教が育てたべブライ文化は、文学と音楽が中心で視覚から入ってくるものは軽視されていました。シャガールがユダヤの大コミュニティーで育ったことで絵画に取り組むことは、最初から困難が伴ったと指摘する専門家もいます。
パリで最新の絵画の動きを学んだシャガールは、当時、注目されていたフォービスム、シュールレアリスム、キュビスムを吸収しながらも、ロシアに由来する寓話の世界、彼独自の想像の世界の登場人物たちは、画家の故郷に固定されているかのようです。
戦争という暴力の時代に愛と喜び、悲しみに晒される人間、それを見守る神と十字架上のイエス・キリストを描き続け、ニースの彼の美術館は、シャガールが寄贈した聖書に纏わる連作で埋め尽くされて
います。20世紀の宗教画が求めた天界と地獄を見事に体現した画家でした。
それはシュールレアリスムの多くの画家が、おどろおどろしい心象風景を描いたのとは異なり、画家の想像の世界には、常に温かい視線がありました。それは彼が愛し続けた妻、ベラへの思いとも重なり、まさに魂の救済を追求した画家らしい作品でした。
その力は生きる勇気、苦痛への癒し、人間賛歌であり、まさに今の時代にも力を発揮する芸術の普遍的価値を秘めたものです。それはヒューマニズムだけでは語りえない人間を超えたヘブライムズの伝統に根差したものともいえます。信仰による寛容と平和を呼び起こすものです。
今年、フランスで何度も取り上げられたマルク・シャガールの展覧会は、昨年来、戦争に突入した世界にとって、人の心に癒しをもたらしています。シャガールはユダヤ教とキリスト教を結び付けた画家であり、芸術に本格的な心象風景を持ち込んだ20世紀の画家でした。
彼は現ベラルーシのユダヤ人が半数を占める人口6万5000人のヴィテブスクに1887年に生まれました。彼の故郷はロシア帝政の前はリトアニア、ポーランドの統治を受け、ロシア革命以降は70年近くソビエト連邦に組み込まれ、戦争に翻弄された町の出身者でした。
戦争とユダヤ人迫害の中、1923年にパリに本格的に移住したシャガールは、当時、産業革命と科学の発達で人々が宗教から遠ざかる中、きわめて宗教的なテーマに取り組んだ稀有の画家でした。同時代にキリスト教信仰を全面に出した巨匠と呼ばれる画家はルオーくらいです。
フランス北部のルーベ市にある芸術産業博物館、ラピシーヌ美術館では「自由の叫び。 シャガール、政治」と題した展覧会が2024年1月7日まで開催されています。戦争に振り回される今の時代にシャガールほどふさわしい画家はいないと思われます。
シャガールの多くの作品は、様々な心象風景が宙をさまよっています。ミケランジェロの「最後の審判」のように、目で見た自然界ではなく、まるで霊眼で見た世界を作品にした神秘主義的画家でした。
日本では知られていませんが、偶像崇拝を否定したユダヤ教が育てたべブライ文化は、文学と音楽が中心で視覚から入ってくるものは軽視されていました。シャガールがユダヤの大コミュニティーで育ったことで絵画に取り組むことは、最初から困難が伴ったと指摘する専門家もいます。
パリで最新の絵画の動きを学んだシャガールは、当時、注目されていたフォービスム、シュールレアリスム、キュビスムを吸収しながらも、ロシアに由来する寓話の世界、彼独自の想像の世界の登場人物たちは、画家の故郷に固定されているかのようです。
戦争という暴力の時代に愛と喜び、悲しみに晒される人間、それを見守る神と十字架上のイエス・キリストを描き続け、ニースの彼の美術館は、シャガールが寄贈した聖書に纏わる連作で埋め尽くされて
います。20世紀の宗教画が求めた天界と地獄を見事に体現した画家でした。
それはシュールレアリスムの多くの画家が、おどろおどろしい心象風景を描いたのとは異なり、画家の想像の世界には、常に温かい視線がありました。それは彼が愛し続けた妻、ベラへの思いとも重なり、まさに魂の救済を追求した画家らしい作品でした。
その力は生きる勇気、苦痛への癒し、人間賛歌であり、まさに今の時代にも力を発揮する芸術の普遍的価値を秘めたものです。それはヒューマニズムだけでは語りえない人間を超えたヘブライムズの伝統に根差したものともいえます。信仰による寛容と平和を呼び起こすものです。
2024年は経済から政治の時代へ 問われる誠実さ、揺るぎない公正、正義、寛容さ
2023年の大きな変化は、技術では人工知能(AI)の日常生活への浸透、政治では20世紀の2つの大戦後構築した他国の領土を力で変更しないルールの無力化、東西冷戦後に築いた経済優先の世界の枠組みが崩壊したことなどが挙げられます。
歴史家は世界は19世紀の帝国主義、覇権主義に逆戻りしたと指摘し、ナショナリズムが世界を席巻する時代に突入し、結果的に世界の秩序が崩壊の危機に晒されています。特に冷戦後、イデオロギー闘争を脱却し、経済を中心として豊かさ追及に動いた世界は今、国家エゴ追求にシフトしています。
よく、その流れを作ったのは「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ前米大統領とする人が少なくありませんが、私はあえて異なる意見を持っています。世界が無秩序な国家エゴに動き出した原因を作ったのは、皮肉にもノーベル平和賞を受賞したオバマ元米大統領だと考えています。
あまり指摘されていませんが、民主党のオバマ政権時代、対中露中東関係は非常に冷え込みました。理由は考えの異なる国々に対してアメリカは冷淡で無関心だったからです。背景には極端なリベラリズムがあり、その主義と相いれない独裁政治や宗教的影響の強いイスラム圏は敵視されていたからです。
敵視され、無関心な態度を取られた中露、中東諸国が不快感を持ったことは想像に難くありません。考えが異なる者とは関係しない態度は、本来、共存しなければならない彼らを追い詰め、結果として被害者意識を増大させ、他国の技術を違法に盗み、覇権主義が強化され、西側敵視が強まり、テロを生み、世界を2分する状況が生まれたと私は見ています。
多文化共存の多極化均衡論を主張するヨーロッパは、国家エゴに世界を傾かせたのはトランプ氏と非難していますが、彼は行きすぎたグローバル化を止め、国益にフォーカスしただけでした。グローバル化の陰で中国は着々と国力を蓄え、ロシアは領土拡大を準備してきました。
トランプ氏はむしろ、世界に無秩序をもたらすグローバル化にブレーキをかけ、彼がいなければ中国の正体を見破ることもできなかったでしょう。彼は在任中、アメリカ自らが戦争に直接関与することのなかった唯一の大統領であり、北朝鮮がアメリカに向かってミサイルを1度も発射することもありませんでした。
なぜなら、ビジネスマン出身のトランプは、外交をディールに変え、テロリストとは交渉しないというアメリカの伝統的原則外交も無視し、2回も北朝鮮の最高指導者、金正恩に会いました。その後、逆に原則外交のバイデン政権で世界の無秩序化は加速しています。
経済中心に世界は均衡を保ち、平和を維持できるという冷戦後の原則は崩壊の危機に晒され、今は政治・外交が圧倒的存在感を見せています。中国は自国に都合の悪い日本からの輸入品を遮断し、中露共にグローバルサウスを味方につけることに成功しています。
これは被害者意識に覆われた政治、外交によるもので、西側の好むと好まざるとに関わらず、機能しています。教訓は異なる者、悪と思われる勢力を壁の中に押し込める方法は間違っているということです。ロシアのウクライナ侵攻もハマスのイスラエル攻撃も、西側が彼らへの敵視と無関心から壁に閉じ込め、孤立化させた結果です。
2024年は政治・外交が世界を大きく左右する年になるのは確実でしょう。政治や外交に無関心、今の俗語では言えばシカトすることはビジネスにも悪影響を及ぼすのは必至です。同時に理想論だけ掲げる妄想を脱し、現実を受け入れ、地味でも現実を変えていくことに全ての人がコミットすることでしょう。
そのために不可欠なのは誠実さであり、公正と正義を最重視ながらも、愛情と寛容さを忘れず、無関心さを敵とみなすことです。
戦争終結に何が必要なのか 政治と宗教の関係の完全なリセットこそ平和をもたらす
クリスマスの日も変わることなく、ウクライナでもイスラエルでも戦争は続き、パレスチナ自治区ガザでは多くの子供たちが命を落とし、腕や足を失う悲惨な映像が流されている。
戦争を回避してきた東西冷戦、その終結後、「政治より経済関係構築」で戦争を回避してきた主要7か国(G7)がけん引してきた世界の枠組みは、ロシアのプーチン大統領によって崩壊した。今や西側を敵視する独裁体制の中露、イラン、北朝鮮にグローバルサウスの国々も加わろうとしている。
国連は相変わらず無力で、アメリカも内政の混乱から意思決定が遅く、欧州連合(EU)も足並みが揃っていない。そもそも経済活性化についても行き過ぎた規制強化で英国に逃げられ、キリスト教保守の旧中東欧とリベラルな西側の溝は深まるばかりだ。
日本ではリベラルというと天皇中心の伝統的文化から抜け出そうという勢力の事を指しているが、西洋ではキリスト教の伝統的価値を脱する考えを指す。たとえばカトリックの強いアイルランドに同性愛者を公言するバラッカー氏が首相に選ばれたのはリベラルの勝利と言われている。
かつてキリスト教保守の価値観から差別されてきた女性やLGBTの人々が、人権の名のもとに認められる流れにあるのもリベラル化によるものだ。EUの中で、イスラム教徒が差別されているのも、キリスト教的価値観からではなく、イスラム教が宗教戒律を生活の中心に置いていることが自由を妨げていると映っているからだ。
西洋社会は、科学が社会に大きな影響を与えるようになった100年以上前から、科学的でないキリスト教は力を失い、2つの20世紀の大戦で戦場となったことが致命傷となり、実存主義や神を否定する共産主義の嵐がヨーロッパに吹き荒れ、リベラル化が急速に進んだ。
残ったのは近代市民社会と人権思想、人道主義だけで、信仰生活を実践する人口は激減し、自由と権利を強調するリベラル化が、とりわけ西側ヨーロッパを覆っている。宗教は経済の妨げと言わんばかりだが、ヨーロッパよりはるかに宗教的なアメリカの経済力は皮肉にも衰えを知らない。
今、検討すべきは政治が宗教を悪用し、宗教が政治を利用して命を長らえようとする流れを止め、行き過ぎたリベラル化にブレーキを踏み、リセットすることではなかろうか。われわれがイスラエル戦争で見ているのは政治が宗教を悪用し、結果、イスラエルによるパレスチナ人のジェノサイトが起きていることだ。
これを続けると、ユダヤ人が戦後、最大の注意を払い、反ユダヤ主義の芽を強力に摘み取ってきた歴史が覆る可能性がある。人道的観点からすれば、ハマスせん滅の大義の下での一般市民の大量虐殺は認められるわけがない。政治が宗教を利用して、いい結果を生んだ歴史は存在しない。
逆に宗教もまた、政治を利用して、民族主義を加速させる行為は、醜い結果しかもたらさない。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ではカトリック教徒がイスラム教徒を大量虐殺した。宗教利権と政治利権が絡まった結果というしかない。
本来、宗教には領土問題は存在しないはずなのに、イベリア半島の支配をめぐってイスラム勢力とキリスト教勢力が血で血を洗う戦争を繰り返した。軍事力で支配し、後から宗教が入っていくパターンはアフリカでも南米でも同じだった。政治は統治のために宗教を利用した。
実は政治に利用された宗教は、随分とそのために教義を変えている。ユダヤ教の報復的正義「目には目を歯には歯を」は本来、厳しい検討の上に公正さが担保された場合にだけ報復が許されている。しかし、アメリカ外交の基本はティットフォタット(しっぺ返し)はユダヤ教の利用であり、キリスト教では禁じられている。
アメリカは9・11同時多発テロで、その外交原則に従い、アフガニスタンを攻撃した。政治的、外交的には正しいかもしれないが、当時、福音派の論客の中には、報復に反対する人もいた。
ティットフォタットは、防衛理論としては抑止になるが、結果的に憎悪は消えずに増幅され、恨みの連鎖でテロの脅威は世界中で消えていない。
政治が宗教を悪用し、宗教が妥協を繰り返し、弱体化することでリベラル化が進む西側は、独裁国家に抗す力を失っている。毅然とした態度を示すには、確信を持てる価値観が必要なはずだ。中世の時代でもあるまいし、政治と宗教は距離を取り、相互に平和を構築するために支え合う関係にリセットすべきだ。
それに政治と宗教が互いに金に走るのは最悪の状況と言わざるを得ない。宗教からいえば金で平和や天国は手に入らない。誰もが納得する普遍的価値観、良心を育てる教義を最優先すべきだろう。政治は、とかく利権を追求する世俗社会を統治しているわけだから、宗教から道徳を学ぶべきだ。
いずれにしても、行き過ぎたリベラル化は、戦争終結には逆効果というべきだろう。宗教の社会からの追放ではなく、政治に利用されない宗教組織、互いに必要不可欠な存在を維持する政教分離、政治と宗教の関係のリセットが急務と思われる。