安部雅延のグローバルワークス Masanobu Abe Global Works

国際ジャーナリスト、グローバル人材育成のプロが体験を踏まえ現在の世界を読み解きグローバルに働く人、これから働く人に必要な知識とスキルを提供。

フリーの国際ジャーナリストで、フランスのビジネススクールで長年教鞭を取り、日産自動車始め多数の大手企業でグローバル人材育成を担当した安部雅延が、国際情勢やグローバルビジネスの最前線を紹介し、豊富な経験を踏まえた独自の視点で世界を読み解くグローバルトーク。

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 クリスマスの季節がやってきました。パリのオスマン通りのデパートのショーウインドウは毎年、動くディスプレーで人々を喜ばせています。シャンゼリゼのイルミネーション、ニューヨークには巨大なクリスマスツリーがあり、キリスト教の国でもない日本でもクリスマスケーキが飛ぶように売れています。

 イエス・キリストが生まれた日は、イエスが世界に福音をもたらした日です。病を治し、目の不自由な人が見えるようになり、歩けなかった人が歩けるようになる奇跡が日本では強調されますが、本来、日常の現実の問題解決であるご利益がキリスト教の本質ではありません。

 御利益というなら、ヨーロッパ全体が戦場となった20世紀の大戦争を経験したヨーロッパ人は、神様もイエス様も守ってくれなかったといって信仰は失われたはずです。アウシュビッツの収容所で大虐殺されたユダヤ人の信仰も、今、ガザ地区で熱心なイスラム教徒が増えているのも、ご利益宗教でない証拠です。

 献金したり、供え物をすれば、金が儲かるなどという宗教は、1神教では宗教の部類ではありません。世界観がないからです。だから、クリスマスを祝い、その1週間後、神社に行って賽銭を投げ、お払いしてもらい、1年の無病息災を祈る日本人は、今でも世界では不思議な存在です。

 ある日本の新興宗教が金を集めるため、それまでなかった悪霊払いを献金と引き換えに行ったら、とたんに献金が集まった一方、戒律を守る厳しい信仰生活は薄まり、嘘と欺瞞が蔓延したという話もあります。キリスト教の歴史にも教会の資金難を解決するため聖職者が免罪符を信者に買わせる代わりに天国に行けると説いた歴史があります。

 結果的に、ご利益宗教は天国を金で買おうとイエスの教えにない考えだったため、そこからプロテスタントが生まれました。1年に一回だけ神社に行って賽銭を投げればその1年は大丈夫というのは調子のいい話かもしれません。

 日本で「結局は人生金次第、人は金で動くもの」という人生観が根強いのも、そういったご利益宗教と関係がありそうです。ところが島国で天皇が存在し、その天皇は金次第では動かない存在で1500年以上の歴史があると言われていることから、日本人は卑しい商人気質を持ちながらも、道徳的な高さを維持してきた歴史も無視できません。

 今、世界は終わりの見えない大規模な戦争が2つも同時進行しています。その戦場の悲惨な映像を毎日見せられ、子供が泣き叫び、脚を切断せざるを得ない子供は400人を超え、2万人を超える犠牲者の中子供は8千人とも言われています。未だ約6700人の犠牲者が瓦礫に埋まったままとも言われています。

 たとえ彼らがキリスト教徒やユダヤ教徒でないにしても、同じ人間として直視できない悲惨な状況です。私は東日本震災発生時、フランス西部ブルターニュの妻の郷里の小さな町にいました。そこで入った薬局の店主が「日本のあなたの親族は大丈夫か?」と聞かれ、遠い異郷の地に同情してくれた言葉を今でも忘れることはできません。

 イエスがもたらしたのは、キリスト教では福音と言います。福音とは救世主が現れた良き知らせを意味します。その良き知らせは、ローマに支配され、奴隷になるなどして苦労していたユダヤ人にもたらされましたが、イエスは異邦人にも福音を伝えました。

 殺戮を繰り返していた旧約聖書を見れば、毎日、命の危険に晒されてきた一般市民は、病を治すことが福音の本質でないことはすぐにわかります。福音の本質は神を愛し、隣人を愛し、汝の敵まで許すことでした。救済は神の許しによってしかもたらされない考えからすれば、人間同士が許し合い、愛し合うことは当然です。

 そのことが分からない人々に、自分ではなく、他の人のために十字架に掛かったイエスを見て、良心が目覚めた人も多かったということです。新興宗教のような大げさな教義本もなく、たった3年間で示した言葉と行動で2000年以上、信仰が保たれてきたのがキリスト教です。

 無神論の共産主義は、産業革命で広がった格差と、2度の戦争で、急拡大しましたが、100年で力を失いました。普遍性がない証拠で、2000年の歴史を持つキリスト教や4000年と言われるユダヤ教とは比較になりません。

 問題は、教えはあっても実践は難しいということです。ユダヤ教でいわれる報復的正義である「目には目を歯には歯を」も実は公正さを十分に吟味し、報復の正当性が担保されなければやってはいけないとされ、キリスト教では「右の頬を打たれれば左を頬を出しなさい」と言われますが、それは全く現実味がないとして実践されていません。

 福音の教えを守るのは容易でないことが分かります。それでも福音をもたらした記念日を祝うのがクリスマスです。喜ばしい日であり、心が解放された日というわけです。私は個人的にノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの作家、ペール・ラーゲルクヴィストの『バラバ』を愛読書にしています。



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 ダイハツの不正発覚による全面的な販売停止について、このような不正が発覚する度に言われることは性善説で報告を信じ、隠ぺいが放置されたということです。今後、当局の立ち入り検査等で更なる事実が解明され、監察官庁が業務改善命令が出し、業務改善計画の提出を要請する流れになるのでしょう。

 ここで罰せる側は政府当局で罰せられる側は不正を行った企業ということになるのでしょうが、日本は海外から見れば、特殊な国と言わざるを得ません。その理由はあくまで何でも下から上の報告と、上から下への指導しかないからです。特にそれは性善説をベースにした報連相に現れます。

 本来、企業を監督するのが政府各省庁にあるのであれば、監督責任が問われるのが当然です。たとえば、性悪説のフランスでは、観光産業を支える飲食店の衛生基準を維持するため、抜き打ち検査官が配置されています。彼らは時に客を装い、時には強制的に厨房への立ち入り検査を行っています。

 この検査官も飲食店から賄賂を受け取る可能性があるため、監視され、嘘の報告ができないようになっています。自民党派閥のキックバック問題は、領収書のいらない金をねん出することですが、その自由に使える金が日本政治の潤滑油になっていることは誰でも知っていることです。

 私は1970年代までは、報連相は上と下の双方向で行われていたのが、いつしか下から上だけの報連相に変容したことを問題視しています。日本の劣化は組織やリーダーに斟酌しながら従順に従うだけの主体性のない人間を大量生産したことだと思っています。それは拙書『下僕の精神構造』にも書きました。

 本来は報連相は、まずは上が下に自分の必要な情報を集めに行くことから始め、常に双方向のフィードバックを怠らないことが基本のはずです。斟酌や忖度は往々にして悪い結果しかもたらしません。自民党派閥の組織側に対して各議員の秘書は暗黙の了解で疑問を持ちながらも収支報告書に記載する必要のない金を受け取っていたのも、曖昧な忖度があったからです。

 ダイハツは確かに不正を犯したわけですから、それなりの罰を受けて当然ですが、国土交通省にも監督責任があって当然です。企業が発表する不正含みの報告を鵜吞みにし、不正を見逃したのは監督当局にも責任があると言わざるを得ません。両者ともに消費者は裏切ったことになります。

 日本にある根拠のない信頼関係の背後に、企業は役人を恐れるという暗黙のルールがあるのでしょうが、恐れていないから不正が隠ぺいされてきたということでしょう。残念ながら信頼関係は、今回の事例では崩壊していると言わざるを得ません。

 信頼関係を構築する順番が逆になっているわけで、本来日本に培われたのは天皇に対する純粋な純粋な忠誠心が日本の道徳性を高め、日々の互いの地味な努力の積み重ねなしに信頼関係を構築する道はないはずです。特に組織対組織ではモラルハザードは容易に発生します。

 つまり、報告を信じることは一旦やめにして、自ら情報収集に乗り出す姿勢が必要ということでしょう。特に組織には嘘や偽善が渦巻いています。ダイハツで発覚した不正件数はあまりに多く、その期間も30年と長いことを考えると、ちょうど日本の「失われた30年」に重なります。

 日産のゴーン不祥事も、上を疑おうとしないお神輿経営が、長年の不正と蓄財を見逃したということでしょう。ガバナンスの基本が性善説と人を崇める上に成り立っていることは深刻な問題です。同時に不祥事を隠蔽するような人物が人鵺に立っていることも問題視すべきでしょう。



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 今年の日本の年末は、自民党派閥のキックバック問題(賄賂問題)で終わりを迎えそうだ。個人的に30年以上前、よく取材で出かけた政治家のパーティーを思い出す。選挙目当ての国会議員ばかりが批判されるが、「人間結局は金だ」という卑しい哲学が蔓延しているのは政治だけではない。

 金を与えて自分の都合のいい政治を行ってほしい団体や個人がいる以上、裏献金と言われても、その慣習を止める気配はない。東京五輪の公金横領もその慣習を熟知している政治家、広告代理店、マスコミ、自治体、建設会社などを裏金がうごめいて実現できたのも事実だろう。

 人間がいるところ、腐敗は世界のどこにも存在する。今、ウクライナの欧州連合(EU)加盟に向けた交渉開始で、ロシアよりのEU加盟国ハンガリーのオルバン首相が抵抗して、ウクライナ支援を含む支援パッケージの合意はできず、来年に決議は持ち越された。

 オルバン首相は悪者のように言われるが、彼は欧州が持っていたキリスト教の古い価値観を保持し、LGBTなどの何でもありのリベラル思想が西側から流入することを今でも警戒している。そのオルバン氏はウクライナのEU加盟反対の理由として、ウクライナの汚職問題改善がなされていないことを挙げている。

 西側先進国は、ウクライナに対して全面支援を2年近く続けているが、受け取るウクライナの政府高官の腐敗も指摘されている。まるで極貧のアフリカで国連の支援金が、ごく少数の権力者の懐に入り、国民は飢えている構図と重なるものもある。

 ロシアの激しい攻撃を受け、多数の死傷者を出しているウクライナでも、歴史的に政治腐敗の慣習は消えていない。国を守る国防相まで兵士の軍服支給で裏金を受け取っていたとして解任された。大義の陰で汚職ウイルスが蔓延するのは歴史の常と言えるかもしれない。

 最近、米ウォールストリートジャーナル(WSJ)のコラムニスト、ウォルター・ラッセル・ミードがイスラエルを訪れ、和平の道に関して興味深いコラムを書いた。彼によれば、今でも可哀そうな被害者のように受け止められているパレスチナに対して、完全な世代交代と近代化を提案している。

 理由は、今の腐敗がまかり通り、古い統治体質を継続するパレスチナに対して、イスラエルは和平交渉する可能性はないからだ。二枚舌、三枚舌のパレスチナと正常な交渉をできる状況にないということだ。そこで提案は弱者の立場にあるパレスチナが襟を正すところから始めるべきだという提案だ。

 ガザもそうだが、現状は実は国連や人道援助団体からの援助漬状態にあるパレスチナ内の腐敗は出口が見えないほど重傷だ。たとえばフランスの影響を完全になくしたいマリやニジェール、ガボンなどフランスの旧植民地国で連続して起きるクーデターで政権移行が起きているが、実は彼らの本当の問題の核心は腐敗にある。

 ヒューマニズムの名のもとに弱者に届けられる援助が的確に本当に困っている人に届けられる前に腐敗で支援が届かない構図は、今では誰もが知っている事だ。大義のために腐敗の小事は止むをえないという考えは今でも、まことしやかに信じられている。

 しかし、本当にそれでいいのか。東日本大震災の復興資金の何割が、そういった腐敗の構図で、裕福な人々をさらに裕福にしたかを考えると、正直、怒りを覚えない人はいないだろう。

 政治もビジネスも、多少の汚職は黙認する社会慣習は、赤信号皆で渡れば怖くないということで、良心はマヒし、罪悪感もなくなる。大義名分で拠出される巨額の公的資金が、あっという間に頭の回る利権をむさぼる人間に利益をもたらしている。

 しかし、長い目で見れば、その腐敗は何も生まないどころか、それは負の遺産として個人や組織を回復不可能な暗闇に引きずり込んでしまう。中国では中国共産党幹部の要求に答えて手渡した賄賂が発覚し、痛い目を見た外国企業は少なくない。

 海外赴任研修で賄賂は渡すべきかどうかが話題になることもあるが、発覚した時のダメージは過去のいかなる時代よりも大きい。理由はSNSの時代、良いニュースより悪いニュースの方が数倍早く、大量に拡散するからだ。ESGの時代、悪い評価拡散は命取りになる。

 つまり、問題解決のカギを握るのは交渉力より、そこに潜む腐敗(がん細胞)を取り除く努力こそが重要ということだ。ウクライナもイスラエルも、あるいは自民党も、その視点に注目すべきと個人的には考えている。特に腐敗を除去できる最強ツールは、つまるところ人間の良心しかないはずだ。



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 グローバルプレーヤーには高い見識が必要と、何度かこのブログに書きました。その意味は必要だから学ぶのか、それとも生きて行くうえで悩んでいるからか、さらに好奇心から知識教養を増やしたいという自然な心の要求からなのかは、ハッキリしておくべきです。

 私は知識教養主義の家で育ったために、ある種のアレルギーを持っています。ある方が「知を差別を生むが、心情の世界に差別はない」と言っていたのは的確な指摘と考えています。知識教養主義へのアレルギーは、それが差別を生む権威主義に繋がっていたからです。

 つまり、物事をたくさん知っている人が偉いという考え方で、知の財産をいっぱい持っているから偉いという意識です。ところがスマホで何でも答えがある程度得られる時代に入り、知識教養主義は色あせています。お隣の国韓国では今も大学教授が特権階級のようですが、日本はその時代は終わっているかもしれません。

 そもそも知識教養主義が権威主義に陥ったのは、知識教養をアクセサリーのように考え、沢山、高級アクセサリーを身に付けていることで他を圧倒しようという、きわめて卑しい動機があったからでしょう。

 これは、学ぶことの本末転倒です。それが起きる大きな原因の一つは、子供のころから意味も目的も説明されないままに、勉強させられたことにあると私は見ています。つまり、日本史や世界史などを学ときに、自分との関係はどうでもよく、年表を丸暗記するのが受験勉強との考えは今でもあります。

 かつて有名な編集者と仕事をしていて、彼は東大教養学部出身でしたが、受験勉強のやり方として記憶が重要な地歴などは、入学試験直前に丸暗記し、入試が終われば、全部忘れたといっていました。結果的に記憶力は磨かれ、持ち前の脳の処理能力の高さで有名雑誌の編集長にもなりました。

 しかし、多くの優れた作家や学者を支える編集者でしたが、問題意識が高いとは思いませんでした。銀座のクラブを飲み歩く以外、大した趣味もありませんでした。体から染み出してくるような文化教養は感じませんでした。

 東大法学部で司法試験に取り組んでいた学生と社会問題について議論していて、彼は「教授から人生や社会問題に悩んでいたら司法試験には通らないと言われた。だから疑問が湧いても考えないようにしている」と言われて驚いたことがあります。

 今後は沢山知識があるだけではビッグデータには勝てないでしょうし、処理能力もAIの方が短時間で成果を出せる時代に入っています。それでも勉強し、本を読む理由は、自分に動機が必要です。つまり、自分との関わりが学びの原動力となることで、アクセサリーではなく自分の血となり肉となるという話です。

 AIやビッグデータは、ウクライナ危機や中東戦争を収拾出来ていません。理由はデータ量の多さや処理能力の速さだけでは問題解決はできないからです。自分とのかかわり、自分にしかない動機から習得する知識教養以外に問題解決の力はないからです。

 物知りで他を威嚇することはできても、成果は出せないということです。新約聖書に「求めよ、さらば与えられん」とあるように、心の底から求める姿勢さえあれば、心の渇きを潤すために苦痛なく、自然に知識を増やしていくことができるということです。


 

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 ルイ・ジャンモ、「魂の詩」、「悪い道」、1850年、リヨン美術館 ⒸLyon MBA – Photo Martial Couderette

 世界的に人気のある漫画『北斗の拳』に登場する「修羅の国」の戦士は、仏教でいう阿修羅から着想を得たものです。魔界の妖怪のように言われますが、阿修羅は釈迦を悪から守る守護神の1人です。

 歴史上にはヨーロッパの吸血鬼、中国では鬼と化した死者の霊魂を意味し、最近は漫画『鬼滅の刃』が注目されています。死後の世界に漂い鬼と化した霊魂が、しばしば人間に恐怖を与え、時には人を戦争に駆り立て、命を奪っていくなど、悪の化身の象徴となっています。

 日本では悪霊や雑霊を追い払うお払いが神道の重要な儀式です。太古の時代から太陽はすべてを照らす昼間に対して、すべてを隠す暗闇をもたらす夜があることが世界観に影響を与えてきました。

 しかし、科学の発達とともに人は神秘的な謎を科学で見直し、科学でありえない神話はわれわれの意識から遠ざかり、何でも科学で解決できるとの意識が強くなりました。人工知能(AI)は、それを象徴するもので、結果的に何でも分かったような気になる社会が生まれています。

 頭だけで処理する習慣が身に付き、今ではキャリアアップ、スキルアップに強い関心を持つ向上心のある新入社員は、短期間でスキルが磨けないと感じると、入社後短期間で転職してしまう現象も起きています。

 実は人間の成長に時間軸があることは忘れられ、スマホで何でも正解が得られるとの勘違いが起きています。自分は頭脳明晰なので短期間でスキルは習得できると誤解する若者は急増中で、石の上にも3年などという考えは軽蔑されています。

 しかし、一方で科学一辺倒の合理主義に対する不安も若者は感じており、その不安を埋めるために科学の対極にある神秘主義や霊現象に心惹かれる若者も少なくありません。

 ハリウッド映画から日本のアニメまで、神秘的な題材が繰り返し制作され、人気を集めているのも求められているからです。その中にテーマの一つとなっているのが善と悪という概念です。仏陀や寺を守る阿修羅や仁王像、狛犬は守護神で、善の存在ですが、邪鬼や悪霊は悪の存在です。

 あらゆる宗教で死後の世界に天界(天国)と地獄があることが説かれており、バチカンのシスチナ礼拝堂にあるミケランジェロの最後の審判の壁画にも天使に守られた天界とおぞましい地獄が描かれています。文字を読めない人が多かった時代、視覚で天国と地獄を描くことで信仰を強化したわけです。

 19世紀、産業革命と科学が支配するようになった時代のフランスに登場した画家で詩人のルイ・ジャンモ(1814-1892)は「魂の詩」という壮大な作品を残し、パリのオルセー美術館では企画展が開催中です。彼は壮大な神秘主義の詩と写実の卓越した技法で描かれた神秘的な作品で人々を圧倒しています。

 そこにあるのは無垢な人間が展開に上ろうとする階段に立つ心を惑わす様々な種類の悪霊が立ち、時には人間を誘惑し、時には知で惑わせ、時には暴力で攻撃し、恐怖の奈落に陥れようとします。そこに天使や女神が登場し、悪を退けようとします。

 神秘主義の神学者で哲学者のスウェーデンボルグ(1668-1772)は著書『天界と地獄』の中で、悪霊たちは天使が一瞥するだけで一目散に地獄に逃げていくと書きました。

 悪から身を守ることは容易なことではなく、悪霊たちは人間の弱点を熟知し、人間を地獄に引き込もうとしているというわけです。

 今、われわれは第3次世界大戦前夜のような状況に直面しています。科学に支配された若者たちが感じる不安から、目に見えない合理的でないものに答えを求める時代。本当に悪を退ける天使が存在し、守ってくれるのであればいいのですが。

 少なくとも悪にひきづり込まれないためにに最低限必要なのは、どんなことがあっても恨みや憎しみを持たないことではないかと個人的には考えています。



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 私の郷里、別府にある立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長(今年いっぱいで退官)は、70冊を超える著書の中で、自然界の生物は生存期間の9割以上のエネルギーを次世代を確保するため、産み育てるために費やしているのに、人間はそれを軽視していると指摘しています。

 日本を含め、先進国は今、少子化に苦しみ、出生率が1人を切った韓国(先進国とは言えないが)などは、絶滅危惧民族とまで指摘されています。

 少子化には様々な原因があるが、多くは高学歴社会の中で教育費の高騰もあって、子供を少なく生んでいい教育を受けさせることを優先する傾向が半世紀以上続いてきたことが影響しているのは確かです。では、なぜ、高学歴がいいかといえば、社会に知のピラミッドがあり、誰もが上に上りたいと思ったからです。

 より上に行けた人を日本では勝ち組といい、アメリカでは成功者と呼んでいます。人間の体でいえば、誰もが全身に命令する頭になりたいと思う一方、手足になりたい人は減っていうということです。1度しかない人生、手足の人生は価値が薄いと感じるのは当然でしょう。

 それに支配する側か、支配される側かといえば、支配される側を好む人は少ないでしょう。下より上の方がいいと思うのも当然でしょう。ただ、人間の体でいえば、自律神経もあり、体を支える筋肉、栄養を送り込む血管など非常に多くの器官が支え合って生存が成り立っているのも事実です。

 私は高校の国語教師の息子として育ち、両親は二人とも知の崇拝者でした。本は岩波、テレビはNHK、新聞は朝日という典型的なリベラル派だった両親に育てられながら、知の優位性に大きな疑問を持って育ちました。特に知が生む差別、優劣は、とても嫌なものでした。

 良かった点は膨大な本が家にあったので、小学生からの世界の名作文学を読みふけり、高校に入るころには西田哲学などの本を読む機会があったことですが、高校生で受験勉強するより、大学の教養課程で学ぶような書籍を読みふけったことが自分の基礎になっているように思います。

 しかし、知の崇拝者である両親は「子供は少なく生んで賢い人間に育てる」という信念を持っていたことで、核家族で育ったことはまったくいいとは思っていません。たまたま強烈なカトリックの信者の家庭に育ち、7人兄弟の長女だったフランス人と結婚したことで、別の世界が開かれたのは自分にとっては幸運でした。

 神は子供の多い家庭を祝福するという考えは、近代社会には存在していない考えですが、今振り返ると近代以降の人間の知の信奉社会が結果的に少子化をもたらしたことを考えると、人間に与えられた自然界の摂理から、大きく遠ざかったように感じます。

 昔、作家の辻邦夫さん(故人)から聞いた話ですが、彼は「男は社会的生き物で社会に大きく左右されるが、女性は太古の時代から子を産む性として変わらない営みを続けてきたおかげで、物事の本質を見る感性は男性より持っている」と言いました。

 知を崇拝し、拝金主義に走る現代社会は、結果的に少子化をもたらし、滅亡の危機にあるというのは皮肉なことです。誰もが今、生活の質を高めたいともがいている時代、その質とは決して物質的なものではないはずです。私個人はすべての存在が互いに支え合う自然界の摂理に学ぶものは大きいと考えています。



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 自戒を込めて言えば、私個人は過去には人に物事を伝えるのにネガティブアプローチ(否定表現)が多かったことを後悔しています。人のせいにするつもりはありませんが、親の世代は戦中派で命の危険にさらされた経験が多いだけでなく、戦争に負けたため、トラウマを抱え、ネガティブアプローチが主流でした。

 母は満州で戦後2年間も無政府、無警察状態の大連で過ごした恐怖が障害消えることはなく「まじめに勉強しなければ人生大変なことになる」というネガティブアプローチが日常でした。子供の頃は学校内で教師が暴力を伴った叱責をするのは当たり前でした。教師の暴力が社会問題化したのは1970年代に入ってからです。

 最近でこそ、パワハラが様々な分野で問題視されていますが、昔は「愛の鞭」で片づけられていました。引き籠りの子供を身体的暴力で再生させる思想を持った教育者に預ける例もありましたが、精神医学で害あって益なしと言われ、暴力とネガティブアプローチは批判を受けて下火状態です。

 一方、Z世代は、社会人になっても、ちょっと辛いことがあるとすぐ会社を辞め、社会耐性がないと批判されています。これは戦争未経験で高度経済成長が終わり、低成長期に入った時代の親に育てられた世代で、成人するまでに極端な恐怖を感じる機会はなく、さりとてぼんやりした不安が付きまとう世代です。

 少なくとも自分を裏切りたくないので、つい本音をいって誤解されるのがZ世代で、大した個性もなく、強い志もないと言われていますが、ポジティブアプロ−チで褒められることに慣れた世代です。この30年、教育心理学の世界で「褒める効果」が強調され、ネガティブアプローチは悪者扱いでした。

 異文化コミュニケーションでは、誤解が発生しやすいので、ポジティブアプロ−チがさらに強調されますが、異文化でなくても「ほめて伸ばす」が基本になり、ネガティブアプローチはパワハラトン同義語になっています。

 当然ともいえますが、近代化が遅れ、社会が常に不安定な国であればあるほど、ネガティブアプローチは強く、暴力教師も多いという傾向があります。

 徐々に改善されたとはいえ、例えば韓国も同じで、私のアメリカに住む韓国人は、小学校は韓国の教育を受けさせようとソウルの祖父の家に子供を預けた結果、教師のネガティブアプローチにショックを受け、早々にアメリカに引き揚げました。韓国には徴兵制もあるので非常に厳しい教育が正当化されています。

 ネガティブアプローチの影響は、・気分が沈む ・モチベーションが下がる ・嫌な気持ちになる
 ・不安や恐怖を感じる ・心を閉ざす ・反発するなど悪い効果が指摘されています。上から目線の強圧を感じさせる場合もあります。一方、ある程度の緊張で相手の心を正す効果もあります。

 ポジティブアプロ−チの影響は、・気持ちが前向きになる ・モチベーションが上がる ・嬉しい気持ちになる ・期待や希望を感じる 心がオープンになるなど、良い黄河が指摘されていますが、Z世代は褒めすぎるとプレッシャーに感じ、負担になるそうです。

 コミュニケーションの研究者の中には、ポジティブアプロ−チ8割、ネガティブアプローチ2割が適切という人もいます。さらに時と場合によって使い分けることが重要という点も無視できません。ただ、過度な叱責の多くは自己中心の個人的感情の暴走である場合が多いので注意が必要です。

 動機が愛情にあり、相手を生かしたい、相手と良好な信頼関係を築きたいという気持ちがあれば、多少の叱責も効果的です。相手の人権や存在価値まで否定する上からのアプローチに正当性はないと思います。

 

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 今月7日、フランスのマクロン大統領は、最近仏国内で高まる反ユダヤ主義に政府として正式に反対し、取り締まりを強化したことに感謝するため、在仏ユダヤ教団から感謝状を受け取りました。ただ、それがエリゼ宮(大統領府)内で行われ、ユダヤ教の伝統儀式もラビがしたことが厳しい批判を受けました。

 英BBCは「世俗主義が宗教になっているフランス」と皮肉りましたが、フランス大革命でカトリック教会の影響を退けて以来、政治権力に宗教が入ってくることを極力排除するライシテ(政教分離の世俗主義)を徹底してきたフランスでのマクロン批判は当然の流れのようにも見えます。

 イスラエル、アメリカに次ぐ、世界で3番目にユダヤ人約60万人が住むフランスでの反ユダヤ主義運動は社会不安の火種です。しかし、同時に反ユダヤ運動の旗振り役でもある在仏イスラム教徒も欧州最大規模の500万人で無視できない存在ですが、ユダヤ教に比べれば軽視されています。

 マクロン氏はライシテの原則を犯していないと批判に反論しました。実はフランスの事情も複雑です。理由は宗教をアヘンとする共産主義者や無神論者、無政府主義者が、ライシテを宗教化している事情もあるからです。彼らは人間が信仰を持つことそのものを否定しています。


 ただ、ライシテというなら、いかなる宗教からも政治的影響を受けてはならず、政府も偏った肩入れは許されないのが原則です。しかし、宗教は国民の良心を育てるという意味で主権在民の民主主義国家には欠かせないものです。だから民主主義国家の多くは宗教活動を保護しています。

 しかし、一定の宗教が政治権力に入り込み、主権を支配し、世論誘導するのは民主主義の原則に違反します。あくまで国家と宗教の関係は、国民の良心を育て道徳的行動と国益や社会秩序を保つことへの貢献目的以外では共存の道はないはずです。それを逸脱する行為で信教の自由を主張する権利はないでしょう。

 どの国でも政教分離は頭の痛い問題です。ユダヤ人国家建設を国是としたイスラエルがイスラム教の多いパレスチナ自治区のガザでテロ組織殲滅の大義名分の下で一般市民の虐殺を正当化していることにも、深く宗教が関わっています。

 歴史的経験として政治に宗教を持ち込まないことを教訓とする西側諸国は政教分離に敏感です。アメリカでも宗教指導者や団体の政治への影響は少なからずあります。

 宗教は信じる教義を絶対的価値観、世界観とする一方、異なる宗教への排斥を厳しく行った歴史的過去があり、対立を生む火種の一つという認識が、多くの民主主義国家に定着しています。特に1神教の歴史は血で血を洗う戦争に彩られています。民族主義と合わせ、政治を不安定化させる要因です。

 フランスの「世俗主義」の考えは、国家とローマ・カトリック教会(ヴァチカン)の間の長年にわたる闘争を経て、1905年のフランスの法律に盛り込まれました。

 しかし、1990年代、新興宗教を抑え込むための反セクト法制定の議論で、私の友人のカトリック系政治家の中に「1人の人間の心の中で自分の宗教的信念と政治信念を分離するのは不可能だ」という意見もあり、病的な政教分離は宗教弾圧に他ならないという意見も聞かれました。

 私は、まずは無宗教や無神論も自由とはいえ、彼らが信仰者を尊重せず、宗教そのものを排除しようとする姿勢は厳しく批判されるべきだと考えています。宗教を消してしまいたい動機を持つ彼らはライシテの議論に加わる資格はないと思うからです。


  

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「ポール・ギヨームの肖像」1915年作 アメデオ・モディリアーニ ⒸRMN Grand Palais (Musee de l'Orangerie) / Herve Lewandowski

 西洋近代美術の発展は、聖職者や王侯貴族、大商人に代わり、産業革命以降は台頭したブルジョワジーや画商によって画家たちは世に知られるようになった。理由は多くの画家が自分の個性で勝負するようになり、パトロンたちが画家と世の中のニーズを結びつける役割を担ったからだ。

 経済的に豊かになれば、最後に行きつくところは芸術の世界というのは、世界中同じといえるが、聖職者や王侯貴族 商人たちは、自分のお気に入りの芸術家を見つけ、投資した。そんな文化慣習が芸術家を育ててきたために、われわれは数千年の時を終えて優れた作品を鑑賞することができる。

 ゴッホが37歳で亡くなる5年前の1884年にイタリアで生まれたアメデオ・モディリアーニがパリに到着した1906年だった。先駆的芸術家はゴッホ同様、モンパルナスで貧困にあえいでいた。しかし、貴族的スマートさを持つ彼は、貧困にあっても優雅さを最後まで失わなかった。

 トスカーナ生まれの青年アメデオはパリに到着する前に、母親とミラノ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネチアを旅し、イタリア美術に触れていた。19世紀までの芸術家にとって、イタリアは芸術の聖地だった。その歴史的芸術センスはモディリアーニにも息づいていた。

 パリのオランジュリー美術館では「アメデオ・モディリアーニ。画家と彼のパリの画商」展(2024年1月15日まで)が開催中だ。1914年、詩人で画家だったマックス・ジャコブの紹介で知り合った若き画商、ポール・ギヨームがモディリアーニを陰で支えた。それ以前はポール・アレクサンドル医師がパトロン的存在だった。

 1915年から翌年にかけて、モディリアーニは商人やパトロンの肖像画を4枚描き、結果的に150点以上の作品がギョームの手に渡った。短命だったモディリアーニにとって、ギヨームは貴重な存在だった。それから100年後、2人の関係を紐解く展覧会が開催されている。

 35歳で他界したモディリアーニの短くも強烈な人生は、20世紀初頭に才能あふれる画家として、様々な物語に彩られ、多くが映画化されたことで、彼の本質が見極められずにいるとも言われ、20世紀の芸術家の肖像となった。

 今でいえば、アスペルガーや発達障害に属すがゆえの純粋さと貴族的優雅さを備えたイタリア人は、エコール・ド・パリの時代のモンパルナス界隈に深く刻み込まれた。しかし、彼と付き合ったパトロンや画商は「彼は決して芸術の殉教者になりたいとは思っていなかった」と証言している。

 モディリアーニは1907年、サロン・ドートンヌ(秋季展)の1部として開催されたセザンヌ大回顧展を見て衝撃を受けたが、その後、彫刻に取り組んだ。だが、生来の虚弱体質で肺疾患のために断念し、絵に転じた。

 今回の展覧会はモディリアーニがポール・ギヨームと出会った期間、つまり、彫刻を断念し、絵画に専念した晩年の6年間に焦点を当てている。ギヨームはモディリアーニのためにアトリエを借り、彼の作品の収集に努めた。

 モディリアーニは徐々にパリの芸術界や文学界に知られ、ギヨームのコレクションはモディリアーニを世界的に巨匠に押し上げることに貢献した。

 ピカソやスーティン、キスリングなど周囲の友人の肖像画を描いた。さらに1915年から16年にかけて、彼のパトロンを描き、その中にスーツを着たエレガントで自信に満ちた23歳の若い画商、ギヨームも描かれている。

 モディリアーニが描いたマックス・ジャコブ、アンドレ・ルヴェール、ジャン・コクトー、モイーズ・キスリングなど当時のパリの主要人物の肖像画作品は、マスターピースとして後世に残された。

 無論、その中にモディリアーニと晩年、人生を共にし。彼の死を追うようにアパートから身を投げた若い画家、ジャンヌ・エビュテルヌもいた。



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 某大阪の中堅企業が海外生産拠点管理のため、ベトナム人の立命館アジア太平洋大学の学生を新卒採用し、トラブルの相談を受けたことがあります。企業は日本本社とベトナム支社のブリッジパーソンになってもらおうとして日本で教育を受けた日本語もできるベトナム人を採用したわけです。

 相談内容は、採用当時は非常にモチベーションが高く、憧れの日本企業で職を得た感動で、非常にテンションが高かったのが、働き始めて1年が経った頃から、急に元気がなくなり、表情も暗くなったということでした。経営者側は理由が思い当たらず、困っているという相談でした。

 私はさっそく、そのベトナム人の直接の上司や人事部の人が定期的に、そのベトナム人従業員と面談し、本人の状況を把握していたのか聞きました。仕事は順調なのか、仕事仲間とうまくいっているのか、仕事だけでなくプライベートでも困っていることがあれば、一緒に解決しようという姿勢を見せたのか聞いてみました。

 そこで何度も経営陣から飛び出したのが「慣れる」という言葉でした。結論から言えば、会社側は「日本の会社に慣れるのに時間がかかりすぎている」という認識でした。

 日本のような集団管理が濃厚な国では、協調性が優先され、結果、集団が持つ目に見えないルールを含めた空気を読む人間を生み出すためには「集団に慣れる」という言葉も出てくるのでしょう。集団教育で中国共産党崇拝と愛国教育が徹底している中国を別にすれば、行き過ぎた集団主義の弊害は企業のダイバーシティを妨げているといえそうです。

 文化の背景が異なる人々と協業することは、ビジネス上の必要性のみならず、あらゆる分野の21世紀のトレンドです。無論、ダイバーシティマネジメントには、ミスコミュニケーションや「決められない」混乱が生じ、効率性が一見失われ、最悪のケースは戦争状態になるリスクもあります。

 その一方で、過去の歴史を見れば、日本でも明治時代に近代化された欧米との接触で、鎖国していた日本は一気に近代化に成功しました。異文化の恩恵は計り知れません。ただ、当時の日本人には異文化接触に欠かせない3つの姿勢を持っていたことも見逃せません。

 その一つは、日本文化への誇りです。明治人は日本人としての愛国心とアイデンティティに満ちていました。この自信と誇りは異文化接触時に欠かせないものです。

 2つ目は、自分たちが成長するために相手に追いつき追い越す明確な目標や動機があったことです。つまり、開国した国を一流国にしようというパーパスを持っていたことです。そして、3つ目は新しいことを学び取る相手に対する謙虚な姿勢があったことです。

 その授業料は非常に高くついたと言えるかもしれません。欧米から優れた技術者、科学者、芸術家を招聘し、高い授業料を払いました。世界遺産になっている富岡製糸場も絹織物で高い評価のあったフランス・リヨンの技術者の存在は欠かせませんでした。

 そのコストは高すぎたという人もいますが、当時の日本が近代化し、日本経済を発展させたことを考えると、その資金が日本にあったことも大したものです。今では途上国に資金や技術移転する代わりに返済できない債務を利用して相手国の港湾施設などを取り上げる悪質な国もありますが、日本は払えました。

 つまり、1つ目のプライドや自信は、相手に全部奪われ、支配されるリスクにブレーキをかけ、2つ目のパーパスは困難に直面しても、明確なビジョンと目標達成が混乱を回避させ、その目標達成のために3つ目の謙虚さで相手から深く学び取ることを可能にしたということだと思います。

 その結果、感謝の心も生まれるわけです。今の多くの日本企業は頭でダイバーシティの必要性は分かっているのに、超内向きで歪んだ独善的プライドで相手に日本的やり方を押し付けようとして「慣れる」という言葉が飛び出しているといえます。つまり、成功した日本のやり方を学ぶべきという認識です。

 ところが、その成功は同じコンテクストを持つ日本人だけが頭を突き合わせ、協業した結果であって、世界のどこでも通じる普遍性があるのか吟味し、マニュアル化したものではありません。逆に日本人はベトナム人に学ぶものなどないという傲慢さまでも伺えます。

 明治の人々は自分たちより優れた欧米に学ぶ向上心が原動力になったわけですが、今の日本は日本より上か下かに関わらず、異なったコンテクストから新しい発想やイノベーションを生み出すステージにあるといえます。その意味で私の個人的経験からもアジアに学ぶものは少なくありません。

 異文化協業の出発点、ダイバーシティ導入の目的は、そこに多くの気づきがあり、ゼロベースで物事を考え、閉塞感のある日本が新たな地平に向かって脱出することです。そのために慎重かつ大胆な姿勢で明治人が持っていた3つの要素を大切にしながら、持続的発展に取り組むべきだと思います。

 

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 人質解放の1週間の休戦を経て、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザに対する総攻撃を再開し、ガザは再び地獄絵と化しています。ハマスせん滅を大義とするイスラエル、ユダヤ人国家せん滅を主張する今回の戦争で勝者を見つけ出すには、どちらかが敗北を認めるしかない状況です。

 所詮、国家対テロ組織の戦いで、勝敗は見えているはずなのに、出口は見えていません。ウクライナ紛争も圧倒的戦力を持つ軍事大国、ロシアが弱小国ウクライナに軍事侵攻し、2年近くも戦争が続いています。これら2つの戦争当時国は、弱小者側には強靭な信念と支援する国々が存在しているのが現実です。

 イスラエル・ハマス戦争では、一般市民犠牲者が増加する一方で死者はパレスチナ側に集中しており、国際世論は親パレスチナに傾いており、イスラエル政府に対する理解は弱まりつつあります。それでもハマスを悪とし、強烈にイスラエルを支持する側は、一般市民の犠牲やむなしとの考えです。

 中東情勢は政治、経済、外交、宗教が複雑に絡み合ったもので、正確に事態を把握するのは非常に困難です。特にイスラエル、パレスチナ双方がプロパガンダ合戦を繰り広げていることが、実態把握を余計に困難にしています。特に宗教的正義は、歴史上、戦争の残虐化を産んだ過去があり、人々の心深くに根差した信念だからこそ、誰も制御できなくなる危険をはらんでいます。

 その宗教的信念も単純ではなく、例えば、今、イスラエルのネタニヤフ政権で影響力を持つユダヤ超正統派勢力は、実は過去にはイスラエル建国に反対した経緯があります。

 宗教の本質は教義に従った理想を追い求めることです。特に日本人には縁遠い1神教には絶対的価値観、ヴィジョンを持つ神が存在しています。一方、政治は現実優先なので、宗教的理想主義からは遠く、特に人々の信念の多様性を認める民主主義世界では世俗優先です。

 そのため、人々の価値観を規定する宗教は、民主主義世界では多くの場合、妥協を強いられています。LGBTQの容認などは、その典型で、LGBTQ禁止のイスラム教圏では厳しく罰せられています。

 イスラエルは国家建設では建前上、独立宣言に世界に散在し、多様な考えを持つたユダヤ人を念頭に「宗教、人種、性別に関わらずすべての国民が平等な社会的、政治的権利」を持つとしながらも「ユダヤ人国家の建国」を掲げており、ユダヤ教、彼らが自覚するユダヤ民族(人種ではない)の民族主義が複雑に存在しています。

 超正統派のユダヤ人が建国に反対した理由は、きわめて宗教的理由で、ユダヤ教はイエス・キリストを予言者の1人として認めつつ、救世主として認めず、救世主を待つ宗教です。エルサレムにある黄金の門は、救世主がそこを通って現れると信じているからです。

 私もエルサレムの取材でイスラエル政府所属のガイドから、そのように説明を受け、黄金の門の前に拡がる墓は、救世主の出現とともに霊が復活すると信じられ、選ばれた者だけがその墓に入ることができると受け、ガイドの家族もそこに眠っていることを自慢していました。

 国家建設に反対する根拠の一つは救世主が来ていない段階で国家建設するのは間違いということです。当然、国家を築けば、多様な価値観のユダヤ人、さらにはユダヤ教を認めないパレスチナ人と共存することになり、それもユダヤの教えに反するとして、最も懸念したのは世俗化により、ユダヤ教の教えが揺らぐことでした。

 今のハマスせん滅戦争で、よく引き合いに出される報復的正義「目には目を歯には歯を」は、ユダヤ教の教義からすれば、簡単に正当化できる考えでないことが分かります。報復の実行は、モーセの十戒にある「人を殺してはならない」との整合性が厳しく求められ、制限されています。

 つまり、イスラエル政府のハマス及びガザ一般住民の殺害は、ユダヤ教学者の中には一線を越えた行為とする見解もあるということです。つまり、国家を持ったことで世俗化が進み、時には政治利用され、国民を戦争に駆り立てているともいえるわけです。

 世界に散在するユダヤ人の中には「国家など持つべきではない。静かに救世主を待つべき」という人たちがいるということです。この視点はややもすれば忘れられがちです。



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 昨今の世界各地で発生する戦争は、歴史的に起きた戦争の再現とも言われています。つまり、21世紀の新しいタイプの戦争や対立ではなく、人間が紀元前から繰り広げてきたパターンが基本にあるということです。その基本は異文化に対する無理解と、対立や衝突を回避するアプローチが見つからないことにあります。

 ユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中に生まれる」とあり、「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、かつすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果たさなければならない神聖な義務である」とも書かれています。

 しかし、残念ながら違いを認め共存する精神を妨げているのが、宗教における価値観がもたらす選民思想や民族主義から生まれる優越思想、領土保有欲です。さらに、自分が持つ価値観を相手に押し付けようとして生まれる支配するか支配されるかの観念は、人間を戦争へと突き動かしています。

 SNSの時代だと言い、過去に人類が経験したことのないコミュニケーション革命が起きたはずが、実は人類は開けてはいけないパンドラ(地獄)の箱を置けてしまったかのように批判し合い、傷つけ合い、殺し合う日常が続いているように見えます。

 異文化理解の基本は、まず、相手に対する偏見や固定観念を持たないこと、自分で持つ価値観で相手を見ようとしないこと、相手を理解するためのデータとファクトを確認し、ロジカルに理解する努力を
怠らないことです。それでも異文化を理解するのは困難です。

 何千年も異なる風土や歴史の中を生きてきた人間が共生するのは指南の業です。ハイコンテクストの日本人は、相手を理解するスキルが高いとは言えません。理由は極端な違いがないことがハイコンテクストの文化をもたらしているからです。それに異なるものを排除する慣習もあります。

 40年以上、朝鮮半島を取材してきた専門家が「朝鮮は日本人の常識では到底理解できない」といったのは印象的です。日本は明治維新以降、大量の西洋文明を受容しましたが、戦後、アメリカが日本占領下で試みた日本のキリスト教化は実らず、ついぞキリスト教は受容しませんでした。

 西洋先進国が武力で支配し、キリスト教を広める方法は、日本には通じなかったことは、日本人の血に流れる価値観が拒んだというしかありません。日本は自由と民主主義を信じる点で西側諸国に属すると言いますが、G7で唯一のキリスト教的価値観を持たない国です。

 ただ、キリスト教の世俗化が止まらず、社会は崩壊の危機にあるため、日本をキリスト教化する説得力はなくなっているのも事実です。

 ダイバーシティの利点は、違う視点が提示されることで、それまで気づかなかったことに気づくことです。ビジネスにとって気づきは非常に重要なことという意味で、ダイバーシティ・マネジメントは極めて重要です。あらゆるものが気づきによって改善、改革されていることから考えると有効であることは否定できません。

 ただ、長い歴史を持つ日本で培われてきた目には見えない、明文化もされていない伝統文化を、ダイバーシティが破壊するリスクもあります。例えば成果主義に象徴されるハーバードビジネススクールが教える欧米文化に根差したビジネス理論が持ち込まれた1990年代、様々な副作用が起きました。

 気づいたからといって、改善するには慎重さも必要です。今ではグローバルマネジメントで、相手の文化をリスペクトするのは基本中の基本です。日本に左翼思想が定着しなかったのも、相手を徹底批判し、排除する彼らのアプローチは日本人のような支え合い、共存を最優先する国では拒否反応が起きるのは当然です。

 ただ、ダイバーシティが何でも受け入れるというふうに解釈されるのは、間違っています。それは善悪の価値観を持たないことを意味し、それでは生きる価値ががなくなります。つまり、パンドラの箱を開けただけで、待っているのはカタストロフィーです。

 重要なことは異文化がもたらす気づきを、どう役立てるかです。過渡期にある日本では、多くの改革が必要な時期ですが、一歩間違えれば、過去の歴史から学べば、大混乱をきたす可能性もあります。それを避けるために精神、明確なヴィジョンが今必要なのだと思います。