昨年来、日本では、森友学園や加計学園の問題で「忖度」という言葉が使われています。来週、証人喚問が決まっている佐川前国税庁長官の証言が注目されていますが、そこでも長期政権を続ける安倍首相や昭恵夫人の、あるいは他の有力政治家に対して忖度があったかか争点の一つです。
そこで、この日本独特とも言える忖度について考えてみたいと思います。私は10年以上前、『下僕の精神構造ー今日本人の尊厳と祖国愛が試されている』という本を書きました。
内容は日本人の精神構造の中に深く根付く「殿に仕える」とか「ご主人様に仕える」といった下僕的精神があり、それを超えなければ本当の豊かな国にはなり得ないという話でした。
長い間、それは美徳とされており、会社や組織への忠誠心、滅私奉公、親への孝行を支える重要な精神とされてきました。夫婦であれば、夫が内心、お茶が欲しいと思うだけで、妻が忖度してお茶を持ってくるのが理想的夫婦としてきたのも、その一つです。
そして忖度は、時として良かれと思ってしたことが、逆効果になり、部下あるいは子供は悔しい思いをするということも起こり得たのが日本の歴史でした。無論、海外にもあるストーリーです。アメリカは逆に忖度して生きるよりも正義を大切にし、間違った上司がいれば抗議する文化です。
「殿のためなら、悪に手を染めるのも仕方がない」というのは、今の日本の大企業が起こしているデータ改ざん、不正経理などにも見られることです。これらは下僕の精神に支えられた忖度が機能不全にあることを物語っています。
しかし、親や上司を喜ばせたいという精神そのものが悪いわけではない。問題は動機だと思います。組織では上司に気に入られようとする人間が評価される傾向があります。トヨタ自動車のディディエ・ルロワ副社長は就任時、「上司のためではなく、会社のため働け」と言いました。
さらに踏み込んで言えば「会社のためより社会のために働く」のが崇高な精神でしょう。つまり、忖度の動機が自己中心であることで機能不全を起こすという話です。下僕とは仕える主人の本当の願いを知るより、主人の外面的要求に答えるしか頭にありません。
だから、時として的外れな忖度をしてしまうというわけです。そこには自分が上司に気に入られようという自己中心の動機があるわけです。
では、下僕精神ではない心は何かといえば、自己中心の動機を排し、より全体のことを考えて主体的動機で行動する精神です。今回の森友学園などの問題も、疑われている関係者が国家のために行動したのか、それとも自己中心で行動したのかということだと思います。
忖度という言葉だけが一人歩きしていまっていますが、いい忖度、悪い忖度があるはずです。現実は綺麗事ではないというかもしれませんが、パワハラ上司ほど部下に間違った忖度の動機を植えつけるというリーダーシップの問題も、そこには見えます。