元来、欧米の意思決定スタイルはトップダウン(上位下達)なのに対して、日本はボトムアップ(下位上達)といわれてきました。ところが中身をみると逆のような意味合いがあり、多文化の現場で混乱しているケースが多く散見されます。
日本で今、話題になっている日本ボクシング連盟や日大アメフト部、レスリング界などで噴出した指導部のリーダーシップで、改めて意思決定を含む組織のガバナンスが注目を集めています。世界中、意思決定には多くのスタイルがあり、それは歴史や文化的背景によって形作られたものです。
しかし、グローバル化の進展で働く環境自体が多文化となり、異なった背景を持つ人々が協業する新しい状況が生れています。それは多国籍企業が台頭した1980年から始まったわけですが、何が今は違うかといえば、たとえば強烈な固有文化を持つ日本企業は、過去には海外に進出しても上層部は日本人で固め、その日本人たちは日本本社の支配下に置かれてきました。
今も多くの日本企業が、そのスタイルを継続しており、時代錯誤になっています。このスタイルでは相手の文化に配慮することは少なく、日本の優れたやり方を上から押しつけるパターンになりがちです。実はアメリカ企業も成功体験が多いので、海外で押しつけ的になる傾向は過去には強くありましたが、実はアメリカ自体が多文化という点が日本とは大きく違います。
上図は国ごとの意思決定のスタイルの傾向を示したものですが、日本は集団で管理するコンセンサス型といわれますが、実は図で示されたようなボトムアップでは語れない上意下達の側面があります。そこには歴史的経緯があり、ステレオタイプの区分けは本質を遠ざけています。
日本のボトムアップは稟議などで語られますが、稟議は一定の高い職位の間で行われており、基本は下が上を支える経営スタイルであって、組織の下位・下層が意見や案を出し合い、上位・上層がそれを吸い上げてコンセンサスを得て決定するボトムアップとは本質的に違います。
日本の上意下達は、殿が自分の意図を将軍であれば老中が下位に対して文章や言葉で伝えるパターンが多く、そのため仲介者である上位の側近が権力を持つことが多かった。それに上位、下位の関係性は絶対的で、ヘタをすれば「死を賜る」ことさえあったわけです。
上位の人間は下位の者にとっては雲の上の存在であり、直属の上司はその雲の上の存在の代身と受け止めらていました。このパターンでは下位にある者が上位の人間を崇拝し、多大な関心を持つ一方、上位の人間が下位の者に関心を持つことは非常に薄くなる傾向があります。
家族的経営が息づいていた時代には、面倒見のいい上司が評価され、当時は上司も部下に関心を持ち、責任感もありました。しかし、今は家族的経営は前近代的として、部下も上司にプライベートは知られたくないと思い、心の関係性が取り除かれたために自分の部下に無関心な上司が増えた一方、上意下達の慣習だけが残っているともいえます。
この構造を支えるのは、善くも悪くも下が上に仕える下僕(しもべ)の精神です。下僕のいい意味はシビルサーバントのように国民に奉仕する精神ですが、悪い意味は自分を貶めて上に仕えるパターンで、自分の意見や意思、正義を持たず、一人の人間としての人格や価値を否定された本当の奴隷的精神です。
それに人間崇拝や上に仕える精神、忖度が加わり、大企業の中には自分たちの上司の食べ物の好き嫌いや好みのビールの銘柄まで熟知していなければいけないなどという文化が残っていたりします。大きな権限を持つトップの場合は、接待マニュアル本まであったりします。
たとえば、この話をアメリカやフランスですると「そこまで上司が大切にされているのは素晴らしい」という一方、部下が自分の意見はいえないとか、公私に渡って上司に仕える文化には「まったくついていけない」との意見が大勢です。
この下僕の精神文化をそのまま海外に持ち出してうまくいく例はありません。海外で雇用しているポテンシャルの高いナショナルスタッフを日本で研修し、帰国した直後に会社を辞める現象の理由の一つが、会社に漂う下僕精神を敏感に感じ取ることにあることを本人へのインタビューで確認しているところです。
日本人の血の中には、儒教的な規範だけでなく、上意下達を支える下僕の精神構造があると私は見ています。それを取り除くことが、グローバル時代で成功し、一流国になる道だと私は考えています。
ブログ内関連記事
消えゆく家族的経営、されどどこに向かうのかはっきりしない日本的経営
一方通行の報連相がリーダーを駄目にするー質問力強化が必要
公私の分別のない人間崇拝が組織を機能不全に陥れる
いい忖度、悪い忖度があるはず
日本で今、話題になっている日本ボクシング連盟や日大アメフト部、レスリング界などで噴出した指導部のリーダーシップで、改めて意思決定を含む組織のガバナンスが注目を集めています。世界中、意思決定には多くのスタイルがあり、それは歴史や文化的背景によって形作られたものです。
しかし、グローバル化の進展で働く環境自体が多文化となり、異なった背景を持つ人々が協業する新しい状況が生れています。それは多国籍企業が台頭した1980年から始まったわけですが、何が今は違うかといえば、たとえば強烈な固有文化を持つ日本企業は、過去には海外に進出しても上層部は日本人で固め、その日本人たちは日本本社の支配下に置かれてきました。
今も多くの日本企業が、そのスタイルを継続しており、時代錯誤になっています。このスタイルでは相手の文化に配慮することは少なく、日本の優れたやり方を上から押しつけるパターンになりがちです。実はアメリカ企業も成功体験が多いので、海外で押しつけ的になる傾向は過去には強くありましたが、実はアメリカ自体が多文化という点が日本とは大きく違います。
上図は国ごとの意思決定のスタイルの傾向を示したものですが、日本は集団で管理するコンセンサス型といわれますが、実は図で示されたようなボトムアップでは語れない上意下達の側面があります。そこには歴史的経緯があり、ステレオタイプの区分けは本質を遠ざけています。
日本のボトムアップは稟議などで語られますが、稟議は一定の高い職位の間で行われており、基本は下が上を支える経営スタイルであって、組織の下位・下層が意見や案を出し合い、上位・上層がそれを吸い上げてコンセンサスを得て決定するボトムアップとは本質的に違います。
日本の上意下達は、殿が自分の意図を将軍であれば老中が下位に対して文章や言葉で伝えるパターンが多く、そのため仲介者である上位の側近が権力を持つことが多かった。それに上位、下位の関係性は絶対的で、ヘタをすれば「死を賜る」ことさえあったわけです。
上位の人間は下位の者にとっては雲の上の存在であり、直属の上司はその雲の上の存在の代身と受け止めらていました。このパターンでは下位にある者が上位の人間を崇拝し、多大な関心を持つ一方、上位の人間が下位の者に関心を持つことは非常に薄くなる傾向があります。
家族的経営が息づいていた時代には、面倒見のいい上司が評価され、当時は上司も部下に関心を持ち、責任感もありました。しかし、今は家族的経営は前近代的として、部下も上司にプライベートは知られたくないと思い、心の関係性が取り除かれたために自分の部下に無関心な上司が増えた一方、上意下達の慣習だけが残っているともいえます。
この構造を支えるのは、善くも悪くも下が上に仕える下僕(しもべ)の精神です。下僕のいい意味はシビルサーバントのように国民に奉仕する精神ですが、悪い意味は自分を貶めて上に仕えるパターンで、自分の意見や意思、正義を持たず、一人の人間としての人格や価値を否定された本当の奴隷的精神です。
それに人間崇拝や上に仕える精神、忖度が加わり、大企業の中には自分たちの上司の食べ物の好き嫌いや好みのビールの銘柄まで熟知していなければいけないなどという文化が残っていたりします。大きな権限を持つトップの場合は、接待マニュアル本まであったりします。
たとえば、この話をアメリカやフランスですると「そこまで上司が大切にされているのは素晴らしい」という一方、部下が自分の意見はいえないとか、公私に渡って上司に仕える文化には「まったくついていけない」との意見が大勢です。
この下僕の精神文化をそのまま海外に持ち出してうまくいく例はありません。海外で雇用しているポテンシャルの高いナショナルスタッフを日本で研修し、帰国した直後に会社を辞める現象の理由の一つが、会社に漂う下僕精神を敏感に感じ取ることにあることを本人へのインタビューで確認しているところです。
日本人の血の中には、儒教的な規範だけでなく、上意下達を支える下僕の精神構造があると私は見ています。それを取り除くことが、グローバル時代で成功し、一流国になる道だと私は考えています。
ブログ内関連記事
消えゆく家族的経営、されどどこに向かうのかはっきりしない日本的経営
一方通行の報連相がリーダーを駄目にするー質問力強化が必要
公私の分別のない人間崇拝が組織を機能不全に陥れる
いい忖度、悪い忖度があるはず
