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 フランス人の妻から40年以上前のフランスで日本人はどう思われていたかを聞かされショックを受けたことがあります。それは「日本人は札束を握って生れてくる」「フランス人は日本人を見るとお金が歩いているみたいといわれていた」という話です。極めて平凡なブルターニュの田舎の一般家庭で育ったフランス人の話です。

 1962年にドゴール大統領を訪問した当時の池田勇人首相について「トランジスタのセールスマン」とドゴールが評した有名な話(作り話説が有力だが)がありますが、西洋文明を結実させた(日本人にその認識は薄いが)誇りを持つフランス人には、遥か遠い極東で大国に戦争を仕掛けた愚かな国というイメージがあり、フランス人の優越性がにじみ出た言葉でした。

 それから、世界第2位の経済大国に登り詰めた1990代初頭、私は、フランスの焦りと日本を蔑視する心が交錯する現状に接しました。それはフランスの政財界の大物の連続インタビューをしていた時、プジョー・シトロエングループを率いるジャック・カルヴェ氏にインタビューを断られた時でした。

 当時、イタリアのフィアット財団のウンヴェルト・アニエッリ会長もインタビューに応じていた中、後にも先にも、私のインタビューを断ったのは彼一人でした。その後、日本研究で有名なパリ政治学院のエスマン教授に断れた話をしたら「まったく彼は古い考えを変えない男だ」と嘆いていました。

 1955年にフランスの政治家や高級官僚、大企業トップを排出する国立行政学院(ENA)を出たカルヴェ氏は、フランス人エリートに多い、バリバリの愛国主義者で白人優位、アジア蔑視は当然ということだったことをエスマン氏に解説してもらいました。

 しかし、当時はクレッソンが首相の時代で、台頭する日本に対抗するため「全ては可能、日本恐れずに足らず」というキャンペーンを政府が主導して行っていた時代です。つまり、古いステレオタイプのイメージと経済大国としてインパクトを与える日本の現実が交錯していた時代でした。

 私自身は、そんな時期にフランス政府が日本的経営をまともに学ぶ大学院設立を進めていたところに遭遇し、日本企業とのコンタクト役をしたり、教鞭を取った経緯があります。日本人である私は、お金が歩いているといわれた日本のイメージを持つ親に育てられた一方、日本の漫画やアニメで育ったフランス人学生に正しい知識を持ってもらうことに専念しました。

 日本ではバブル絶頂期に日本は商人国家だと多くの識者はいっていましたが、今、それは職人国家に訂正されています。商人国家というなら中国がより当てはまるし、実は欧米先進国では商人国家は悪い意味としてしか使われないことを日本人の多くは知りませんでした。

 当時、お世話になった評論家の故草柳大蔵氏は「松下幸之助は私を嫌っている。理由は商人の松下幸之助が偉そうなことをいうのはおかしいと私がいうからだ」といっていました。イタリアに傾倒する草柳氏はメディチ家の例をあげ、大商人でさえ社会的評価を上げるため親族から聖職者や文人を排出するのに賢明だったといい、日本の士農工商の考えでも商人は卑しい存在だったといっていました。

 産業革命後、社会の上層部を占めるようになったフランスのブルジュワたちも商人でしたが、商人をひとつ低い存在と見る考えは今でもフランスにくすぶっています。それが最近では日産のゴーン前会長のマネー・スキャンダルへのフランス国民の嫌悪に表れています。

 私は日本が商人国家ではなく、職人国家だというのに安堵している一人です。無論、職人も社会的地位が高いとはいえませんが、少なくとも技を究める純粋さがあります。純粋さということで考えさせられたきっかけは、平成から令和に元号が変わり、生前退位した明仁平成天皇が、象徴天皇とはどうあるべきか考え続けたことでした。

 私個人は、国民統合の象徴の鍵を握るのは日本人の良心を意味すると解釈していますが、その良心の中身は古来日本の神道の中心にある「清き明(あか)き心」(清明心)だと思っています。やましさや邪心がなく、くもりなく晴れ渡った、すがすがしく清らかな心です。宗教的には神の前でそういう心でいることです。

 この心はキリスト教の精神にも通じるものがあります。イエスは「幼子のような者でなければ天国に入ることはできない」といわれ、純粋無垢な清明心の大切さを説いています。

 この清明心こそが日本人が美徳とする正直、誠実、思いやり、忠実などの土台であり、不誠実や卑怯なやり方を良しとしない道徳観を形成しているといえます。ところが日本国内で通じる精神も海外に一歩出れば、清明心は危険に晒される可能性があります。

 安倍首相が「誠意を示せば中国も分かってくれる」というのは、あまりにもナイーブな考えで、相手はそのナイーブさを逆手にとるかもしれません。往々にして誠実さは個人には通じても組織や集団となると様相は変わってしまいます。平成天皇の姿を見ながら、象徴天皇には清明心を保つ使命があると思いました。

 問題は、それが偏狭なナショナリズムや民族主義に陥らないことです。正直、誠実、思いやり、忠実の4つが日本の村社会を出る時、その真価を発揮するのに4つの中では思いやり、分け隔てのない愛情でしょう。それに平成天皇が何度も示した国民への感謝は、日本人の心に大きなインパクトを与えたと思います。その感謝の心はグローバルな舞台でも人心を掴む鍵を握るものです。

 清明心には強さが必要です。確固たる信念が必要でしょう。お金のために自分の魂まで売るような商人に墜することだけは、あってはならないと思う日々です。

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