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 日本がバブル経済に沸いた1980年代後半、多くの識者が日本は技術大国であると同時に商人国家だと定義付け、論を展開しました。丁度、同じ頃、評論家たちは「経済一流、政治・外交三流」という言葉を頻繁に使っていました。ところが中国の経済的台頭で商人国家とか経済一流という言葉は影を潜めました。

 私も1990年代、フランスのビジネススクールで教鞭をとり始めた頃、世界第2位の経済大国日本を紹介する際、技術大国、商人国家的説明をしていました。当時、初代国連大使だった故加瀬俊一さんに鎌倉のご自宅で話を伺った時「日本は技術大国といわれるが、その多くは韓国や中国でもできるものばかりだ。今後はいかに日本にしかできないものを作り出すかが課題だ」と指摘されていたのを思い出します。

 結果的に日本の技術を吸収した中国、韓国、台湾は、日本のトップメーカーを凌ぐようになり、同時に製品開発では、サムスンの家電製品のように、その国に合ったカスタマイズされた製品を作り、その売り込みも非常にアグレッシブで、商人国家というなら韓国や中国が上手だということが明らかになりました。

 数年前、日本を代表するオーディオ・映像製品を世界に提供し、優れたデジタル技術を持つ某日本企業の幹部と話した時「日本人ができるもので中国人ができないものはありませんから、彼らが日本に取って代わる時代はすぐそこまできています」といっていたのを聞いて、技術大国も店じまいの時がきているのかと落胆させられました。

 さらにネガティブな話は「日本の職人技術にしかできないことがある場合は、その日本人技術者を個人的に雇えばいいという考えも中国や韓国にはあります」という話です。今では経営に行き詰まった日本企業が外国企業の買収され、根こそぎ技術を持っていかれる時代ですし、企業間の共同開発やOEM提供で、製品自体の国籍は失われています。

 つまり、技術大国、商人国家というキーワードは廃れ、残ったのは職人文化だけということです。日産自動車で昨年暮れ、ゴーン会長(当時)が電撃的に逮捕され時、同社の工場に通勤する社員へのインタビューで「われわれはいい車を作るだけです」といっていたのが印象的でした。フランスのルノーの工場従業員の口から絶対に聞かれないコメントです。

 会社がどうなろうと国がどうなろうと、自分は「いい仕事」をし続けるだけと考える日本人は少なくないはずです。そこに最大のプライドを持つのが職人です。第一、人事マネジメントそのものが、徒弟制度、経験主義を基本に置く職人文化そのもので貫かれています。

 まじめで器用な日本人の国民性が生んだ高度な職人文化は、今のところ世界では群を抜いており、誇れることですが、ビジネスチャンスを失えば、職人は活躍の場を失います。つまり、職人といえども、先を見通しながら、イノベーションを繰り返す努力がなければ、行き詰まってしまいます。

 職人は基本的に近視眼的です。自分の目の前にあるもの作りで完成度の高い製品を生み出すことに集中しています。逆にそれ以外のことに意識がいかないことが多いということです。そういう技術者が経営幹部になる例は、特に日本の製造業では多く見られます。

 しかし、目まぐるしく変化する今の時代は、その近視眼は足かせです。ある品質のものを大量生産するのが職人なわけですが、それはすぐにコピーされてしまいます。今はそれより競争力を持つ創造性、斬新さ、オリジナリティが求められ、職人ではなく創造的発想が必要とされています。

 では、この創造的感性を育むには、何が必要かといえば、それは「自由」です。創造的な発想は自由からしか生れないからです。つまり、昔ながらのルールや集団を基本に置く日本文化では、優れた職人仕事を継承することはできても、創造的発想を持つ人間は生れにくいということです。

 今後、人工知能(AI)とビッグデータの活用がビジネスの中で比重を増せば、脳の処理能力の速さや言語処理能力、記憶力は必要性が減っていくかもしれません。職人の域の技術もデータ化され、学習は容易になるでしょうし、そうなれば日本人以外の人たちの参入も増えるでしょう。

 今、能力が高いと思われている人の活躍の場は狭まるかもしれません。それに変わり、常に新しい物を生み出す創造的発想力を持つ人間が用いられる時代に入っているといえます。彼らは戦力になりますが兵隊ではありません。そういう人間を生む「自由」を日本社会が与えられるかは大きな課題といえます。

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