今やアメリカ、ドイツ、英国、インドなどのワクチン開発の製薬メーカーが新型コロナウイルスのワクチン供給で人命を救う鍵を握っています。ところが国際競争力を持つワクチンに関する製薬メーカーに日本は登場しません。人命救済と経済回復で1分1秒を争うコロナ禍でハイテク立国の日本は何かを読み誤っているとしかいいようがありません。
実は同じような状況にあるのが感染症では権威的存在のパスツール研究所を抱えるフランス。ドイツのロベルト・コッホ研究所と並び、感染症研究で世界をけん引する存在にも関わらず、そのおひざ元の仏ナノフィ社のワクチンが接種段階に入るのは今年12月との見通しを示しています。
一方、世界に先駆けて接種段階に入ったのは米ファイザー社との共同開発に成功した独バイオテック(BioNTech)という小さなバイオテック企業です。2008年にトルコ系ドイツ人のウグアー・シャヒン教授と妻ウズレム・トゥレチー教授の夫婦が立ち上げた小さなスタートアップ企業です。
そういえば、世界に2番目に接種段階に入った米モデルナ社も、2010年に幹細胞生物学者のデリック・ロッシの研究を商業化するために設立されたスタートアップ企業でした。他のハイオテクノロジー企業との摩擦や学術雑誌からの批判をよそに、トランプ政権に食い込んで頭角を現しました。
通常、巨額の資金が必要なワクチン開発は大手製薬メーカーの独壇場と思われていたのが、想像もしていなかった小さなスタートアップ企業が、新しいテクノロジーとスピード感でコロナ禍が追い風となり、まるでIT業界のように国際競争力で世界を圧倒しています。
そこから見える2つのことの1つは、テクノロジーによる問題解決型(今回は健康)のビジネスの成功には、既存の組織やネットワークとは別のところで、自由な発想と機敏な行動で動くスタートアップ企業に世界の投資家が注目し、資金が集めやすくなっていることでしょう。
そしてもう一つは、これまで同様、グローバルなアプローチが成功の鍵を握っていることです。相手は国籍も民族も地域も関係のない人間であり、その人間の生命をコロナウイルスから守るという普遍的な目的を持っていることです。
人間の抱える問題を解決する力にナショナリズムも民族主義も関係ありません。むしろ、自国の安全保障という側面はありますが、ワクチン・ナショナリズムという醜い争奪戦は、人間の自己中心的保身が引き起こすものであり、ワクチンそのものは本来、世界でシェアすべきものです。
日本は、この2つの条件を満たしていないためにワクチン開発で世界に大きく後れを取っているといえそうです。無論、縦割り行政、許認可制度の厚い壁という古くて新しい課題も日本が世界に取り残される事態を産んでいますが、生命と経済に関わる非常事態でも、その慣習を変えられないとすれば、致命的といわざるを得ません。
最初から世界を視野に入れたビジネスモデルの開発を進めるという発想が、あまりにも日本では希薄です。ある日本のゲームソフトメーカーのグローバル人材開発に関係した経験から、その会社は想定市場は日本だけだったのが、世界で爆発的に売れたため、慌てて体制を整え、新たな優秀な人材も採用する途上でした。
日本は人類未踏の領域に踏み込むチャレンジ精神も希薄です。理由は不確実なことに極度の不安を感じ慎重になる国民性あげられます。フランス人も同じ、スタートアップは盛んではありません。
それに自由が重視されていないことも大きな原因でしょう。特に若者に何度でも挑戦できる環境を作るための環境整備が急がれています。その一方で既得権益を守ろうとする勢力、それを支援する政治家や官僚を徹底排除する必要もあります。
トランプ政権で自国第1主義の風が吹き、コロナ禍で移動が制限される中、声高に脱グローバル化を主張する声が高まっていますが、ワクチン開発を見れば、それが大きな誤りであることは明白です。ポストコロナのビジネスの勝ち組は、世界が共有できる財産を提供することだと私は考えています。
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