持続化可能な開発目標(SDGs)とともに、新時代のキーワードといわれる環境・社会・ガバナンス(ESG)という概念は、すっかり市民権を得ているようです。誰もが反対できない大切な要素として、特に企業価値の新たな評価基準と見なされていますが、果たして定義は明確なのでしょうか。
今や気候変動が現実味を帯びる中、環境問題を考慮に入れることに反対する人はいないでしょう。たとえばプラスチックごみ排除のための企業の取り組みは、投資家たちに高く評価される時代です。その意味で「環境」は分かりやすいのですが、「社会」はどうでしょうか。
実は日本で使われている「社会」という言葉は、そのルーツは日本にはなく、フランスの近代市民社会などで意識された「公共」空間のことを指しています。明治時代、多くの西洋の言葉が日本語に翻訳される中、「社会」という言葉も知恵を絞って翻訳された言葉です。
西洋で使われていた「社会」に通じる概念は日本では「世の中」「世間」というものでした。多くの日本の辞書で社会は「人々がより集まって共同生活をする形態。また、近代の社会学では、自然的であれ人為的であれ、人間が構成する集団生活の総称として用いる」とあります。
その単位は家族、村落、ギルド、教会、階級、国家、政党、会社などが、その主要な形態だとしています。日本においては自然発生的には世界同様、家族であり、村落です。多くのアジア諸国も同じ状況で、集団概念に西洋近代社会のような公共概念はありません。
英国のような階級社会が明確な国では、労働者階級のみが住み地区が国のあちこちに存在し、住む家の形状も似ています。ヨーロッパには広場の文化があり、広場は歴史的に権力者が統治の場として使用し、民主主義に移行した後は市民が議論する場にもなりました。
日本では社会という言葉ができた明治時代には、市民や公共という概念はありませんでした。あったのは家族、帰属する藩、世の中、仲間、村などです。そのため、日本人にとってはESGにおける「社会」は世の中であり、「世間の目」が社会の目の意味に解釈されがちです。
ESGの「社会}は、たとえば社会貢献しているかどうか、社会に悪影響を与えていないかどうかなどの意味を持ち、たとえば差別をもたらすような広告を企業が行えば、ESGでは低く評価されるわけです。つまり、社会の良識、ルール、秩序、モラルを指しているともいえます。
日本人は世間の目を非常に気にする民族だといわれますが、もしそうなら逆に言えば日本人には確固とした信念や善悪の価値観がなく、自分の周囲、すなわち世間の目だけで行動倫理が定まることになり、世間が許すことは「善」となりますが、それだけであるとはいえないでしょう。
むろん、世間の目は強力ですから、皆が戦争に賛成しているのに1人だけ戦争に反対するのは許されないということはあります。これは間違えば、全体主義に繋がるもので、人々の善悪の判断が全体によって支配される危険なものです。それは日本だけでなく、ある価値観が強まれば、それにそぐわない価値観が徹底排除されるキャンセル・カルチャーも同様な意味を持ちます。
世間体は極めて相対的です。皆はワクチンを打つので打たないのは反社会的といっても、若者には自分たちの別のコミュニティーがあり、そこでは打たないことは問題になりません。
ただいえることは、相対的に欧米諸国は公共概念が強く、アジアは家族の延長線上に社会を考える思考が強いことです。日本人はアジアの中では公共意識がある方なので、アジアで仕事をする場合、相手の文化を理解するために、社会という概念がどうなっているかを知ることは助けになります。
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