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 1960年代後半から20年以上、フランスでは「日本人はお金が洋服を着て歩いている」といわれていた。フランス人の妻から聞いた話で、なんとも不快だった。日本がエコノミックアニマルと馬鹿にされていた時期と重なる。今は中国人がそう呼ばれている。

 バリバリのカトリック教徒の妻にとっては、お金は悪魔が忍び寄る人間を堕落させる物という観念が今でも強い。フランスでも時代遅れの価値観になりつつあるが、それでもご利益(りやく)宗教への軽蔑は変わっていない。これは欧米および世界のキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒など一神教を信じる人には特に強い。

 無論、カトリックでも教会を建てるために高額の寄付をしたり、聖堂の鐘楼が壊れたので新しくするのに献金を募ることはある。さらにカトリックには「奇跡」は重視されており、教会に熱心に通い、病気が治ったとかの奇跡は聖堂の石に刻まれている場合もある。

 とにかく、イエス・キリストは視覚障害者が目が見えるようになり、不治の病を治したり、歩行困難者を歩けるようにする数々の奇跡を行ったことが記録されている。パリの守護聖人サン・ドニは権力者によって斬首されたが、彼は自分の首を持って歩いたという奇跡が残り、聖人に列席している。

 しかし、献金すればご利益を得られるという話とは大きく異なる。イエスは大金持ちが天国に行きたいがどうしたらいいかと聞かれ、全財産を困窮者に直ちに差し出すべしといわれ、自分には不可能だと思ってがっかりしてイエスのもとを去ったという話が新約聖書に残っている。

 つまり、神から見て善行(利他的行為)を行う人しか天国に入ることはできないということで、天国を金で買うという話ではない。タイの上座部仏教にも人生で徳を積むことが教えの中心にあり、それは献金だけでなく、出家した僧侶に食べ物を差し出すなどの行為も指す。仏教が利タコが難しい人々の救済の大衆化の過程でご利益が強調されるようになった経緯もある。

 実は多くの宗教の核心は救いにあり、それも生活上の金銭トラブルや病、安産、受験の成功など現世的なものよりも魂の救済にある。そのために基本的に宗教は世界観を示し、その世界観の真実に合致した生活をすることで魂を救済するというのが基本的考えだ。

 私の父も含めてだが、戦中以前に高等教育を受けた日本の世代の教養人の多くは「宗教は人間が作った」と考えているようだ。その理屈はイエス・キリストも仏陀も新興宗教の教祖も人間で、彼らが宗教を興したからであり、それが広まったのは人間がそれを有用と考えたからというわけだ。

 日本は多神教の国で八百万の神が存在し、安産を祈願する神、合格祈願の神、病を治す神とご利益のオンパレードで、人間や科学の力ではどうにもならないものに対して、信仰で運を手繰り寄せることが信じられている。だから、そのための献金が要求されたら疑問には思わない。

 ところが一神教の場合は、人間が創造される以前から神が存在し、その神が人間に救いをもたらすためにイエスやムハンマドを送り込んだという。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が共有する旧約聖書は、神が召命したノアやアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセが記録され、あくまで神が主体だ。

 ところが東洋では神が主体ではなく、自然や人間が主体なために、一神教の神のように絶対善のような価値観はなく、自然でいえば嵐や津波は海の神が怒っているとか、地震は地を司る神が苛立っているという。それに悪についてもその代表選手である悪霊の扱いも東洋ではお祓いなどで取り除けると信じる。

 キリスト教でも悪霊の話は出てくるが、悪霊を献金で追い払うという発想はない。むしろ、強い信仰と日頃の善行によって悪霊は離れていくとの考えだ。むしろ最悪なのは精神的、肉体的弱者である子供や高齢者、病人、貧困者に献金することで救いがあると迫るのは詐欺行為に等しいと考える。

 それに多くの宗教は利他主義を説いている。ご利益宗教は宗教団体と信者がウインウインの関係にあるように見える。だが、教団が献金で得られる利益を保障したことはなく、献金する信者の動機も極めて自己中心的で、利他的行為を最重視する宗教とは程遠い。

 キリスト教がご利益宗教だったら、多くの戦争でキリスト教徒が犠牲になった歴史を見れば2000年間も信仰が続くことはありえないし、国土を失い迫害を生き抜き、最後はホロコーストで大虐殺されたユダヤ人も4000年間も信仰を貫くことはなかったはずだ。

 宗教は、その宗教が示す本来の世界観、自然観から人間がズレていることを悩み苦しみの主因としており、その救済のために正しい世界観(通常は利他的)に自分を戻すために信仰が必要ということだ。それは困った時に痛い場所に絆創膏を貼り、軟膏をつけるような一過性の低次元の行為ではないはずだ。

 人間の魂はそんな安っぽいものと考えるのは金にしか興味のない卑しい商人の考えで、金が何でも人生の問題を解決してくれるという極めて自己中心の考えで、宗教とは程遠い精神だ。私は日本人がそんな卑しい精神で生きてきたとは全く思っていない。たとえ権力者の知恵だったとはいえ、士農工商の地位に序列はそれを明確に表している。