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  磯崎新の初期作品 大分県立図書館(現アートプラザ)

 日本の建築家の磯崎新氏(91)が2022年12月30日に亡くなった。個人的な思い出は雑誌の編集者をしていた頃、磯崎新特集を組むため事務所を訪れ、そこで磯崎さんに写真を撮ってくれないかと頼まれ、事務所の外で写真を撮ったことだ。

 すでに高名だった磯崎は、山のようにポートレートを所持していたはずだし、写真家の篠山紀信の事務所が同じ建物の1階にあった。内心、なぜ、私が磯崎の写真を撮らなければならないのかと思った。理由は後から理解したが、その後、ニューヨークで活躍していた芸術家の荒川修作の東京での個展の時に、パーティーに磯崎さんは妻で彫刻家の宮脇愛子(故人)とともに来ていて再会した。

 フランスの美術雑誌「コネッサンスデザール」は早速、磯崎の死について詳しく報じた。磯崎の建築界における世界的認知度の高さを物語るもので、彼は日本人建築家というよりコスモポリタンの建築家と評した。

 同誌は2019年に受賞したプリツカー賞の審査員の総評を紹介し「アメリカ文化と日本の伝統主義の影響を受けた磯崎は、異なる美的コードを融合させることで、東西の架け橋を築いた最初の日本人建築家の 1 人だった」と書き、建築を詩的な形式と見なす彼は、建築、書道、華道に等しく適用される日本の空間概念「間」に特に愛着を持っていたと指摘した。

 さらに「非常にシンプルな建築形態を開発した磯崎は、独自の建築様式を構築しようとはしなかったが、とりわけ、各プロジェクトの特定の要件を満たすことを心に留めながら、彼の構造を可能な限り環境に統合した」「 明らかなことは、彼が流行に従ったのではなく、彼自身のやり方に従ったということだ」と同誌は書いた。

 磯崎は私とは同郷の大分の出身者。大分には磯崎作品がたくさんある。大分県立図書館(現アートプラザ)に始まり、別府のビーコンプラザ、湯布院の駅舎まで、地元の要請に答え続けた。一方、愛郷心が強いとは言い難いも無視できない。裕福な実業家で教養人だが、人生後半は遊び人だった父親の遊郭通いで母は京都に逃げ、兄妹だけで寂しい子供時代を過ごした。

 戦争で大分は焼け野が原になった。ちなみに私の故郷、別府は温泉地で別府湾に面し、戦時中は日本海軍の保養地で山本五十六も利用し、米軍は日本が負けた暁には米海軍を利用しようと空爆を免れ、焼け野が原にはならなかった。一方磯崎にとっては、生まれ育った町も建築を学んだ東大時代の東京も焼け野が原だった。 
 
 本人もそのことには何度も触れているが「自分は建築物がない空間で青春期を過ごし、建築は書物で学ぶしかなかった」と言っている。これは同じく私と個人的な交流があった作曲家の故團伊久磨氏も「戦後の日本には音楽は何もなかった」と私に語ったのをよく覚えている。

 このことは極めて重要なことで、芸術家にとって創造の原点が真っ白い何もないキャンパスの上から始まるように、磯崎も團も戦後の廃墟の何もないところに、西洋で学んだものと日本的伝統を合わせた新たな創造活動を展開したことだった。それは若い才能溢れる人間には大きなチャンスを与えた。

 多作の磯崎の作品事態に触れることはしないが、彼がコネッサンデアール誌が指摘するように自分の生み出した様式やスタイルにこだわる建築家でなかったことは興味深い。自分より若い日本の建築家が次々に建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞する中、受賞が遅れた一つの理由かもしれないが、逆に優れた芸術家ほど、何度も自分の様式を崩している歴史も無視できない。

 作家の安部公房が『砂漠の思想』の中で、砂漠に立った時のうきうき感を書いているように、戦後の復興期に才能溢れる人間たちが現れ、日本の再建で才能を発揮する機会を若い時から与えられたことは見逃せない。無論、その陰で多くの優秀な人材が戦死した事実も記憶にとどめるべきだが。

 私は30年前にフランスに渡り、ヨーロッパでは建築家が医者や弁護士と同様、それ以上の社会的ステータスを持つことを知った。それは、ギリシャ、エジプトやローマ帝国の時代から文明は都市に凝縮され、その都市は建築によって成り立っているからだった。今、フランス人の妻の甥っ子が建築家になっているが、彼らは医者や弁護士並みの裕福な生活をしている。

 同時に欧米では大学の建築学科は工学系より芸術系に多い。これも建築を単なる建物を建てるだけの土建屋ではなく、高度な文明を構築する仕事と考えているからだ。だから、建築家には非常に幅広い教養が必要であり、人間の住環境を豊かにする責任があるということになる。

 ヨーロッパにおいては芸術と建築は切り離せないものだが、日本は未だにハウスメーカーが大量生産、大量消費の家電製品のように建築物を扱っているのは悲しいことといわざるを得ない。文明や文化とは程遠いといわざるを得ないが、それも戦後の大衆化した日本の姿といえるかもしれない。

 丹下健三、磯崎新などの世界的建築家が築いた土台の上で、今はSDGsに適応した建物を手掛ける日本の建築家も登場しているし、フランスでは日本の建築家は高く評価され、公共建築に多く関わっている。彼らが砂漠に立つうきうき感を持った創造者であり続けていてほしいと思う今日この頃だ。