Degas_-_The_Dance_Foyer
 「ル・ペルティエ通りのオペラ座バレエホール」 1872年 エドゥガー・ドガ ⒸMusee d’Orsay

 今は何でもデジタルな時代となり、人工知能(AI)が美術の世界をも席巻している。20世紀は映像の時代といわれ、映画が視覚芸術を支配した。21世紀はデジタル時代で2次元のキャンパスに描かれた具象画は死に絶えるかのような流れもある。

 ラスコー洞窟で発見された原始の時代の絵から、人類は絵を描き続けてきたのが、果たして2次元絵画、それも目に見えるものをそのまま描く芸術は消えていくのだろうか。いよいよビッグデータとAIが全てを変える時代に本格的に突入したわけだが、私は人の心を揺り動かす絵画は消えることはないと確信している。 

「笛吹く少年」で有名なエドゥワール・マネ、踊り子の連作で知られるエドガー・ドガは、フランスの巨匠として日本で広く知られている。だが、同時代をパリで生きた2人だけを突き合せた企画展は珍しく、今回、パリのオルセー美術館は、ニューヨークのメトロポリタン美術館と協力し、2人の巨匠の特別展を開催した。

 この企画展「マネ/ドガ」展(7月23日まで)のテーマは、激しく揺れ動く西洋絵画の中にあって具象絵画の新たな地平を見つけようとしたことにある。2人は西洋美術の新たな夜明けといわれた19世紀末のパリに住み、同じ空気を吸い、「新しい絵画」を創造する場を共有した。

 2人とも、当時台頭し始めた印象派の影響を受けながらも、独自の具象絵画を生み出すことに専念した姿勢は、その後の画家たちを大いに啓蒙した。2人の特徴は安易に抽象に走ることなく、人体や自然を極端にデフォルメすることもなく、リアリズムの継承者として独自の絵画を模索した点にある。

 マネは生前、批評家から印象派のリーダー格と見なされていた。19世紀後半、油絵の具の発達で戸外での制作が可能になり、フォンテンブローの画家たちは森の中で自然と向き合って制作に励んだ。しかし、マネ自身は印象派の美術運動の集団に加わらず、グループ展への参加も頑固に拒んだ画家だった。

 それだけでなく、権威ある公募展のサロン展にこだわり、パリのオルセー美術館に飾られているマネの代表作「草上の昼食」は、そのサロン展で批判の的になった。作品には一見すると裸体の娼婦と現代風の紳士がピクニックを楽しんでいる。当時タブー視されていた女性の裸体画、それも紳士との取り合わせは大スキャンダルを巻き起こした。

 そんなに批判されるのならサロン展を諦めればとも思うが、実は女性の裸体画はモネの100年前の巨匠ドミニク・アングルも「横たわるオダリスク」などで描かれている。それに20世紀の初頭に女性の裸体画を発表したのはフランスでは女性画家だった。マネの絵は不健全なエロチシズムだったからといえそうだ。

 それにマネは、自然、風景、田舎の景観にこだわった印象派の画家とは異なり、産業化が進む都市でブルジョワの享楽、カフェなどを題材にした作品が大半を占めている。具象画に固守し、人間が絵を描くということの本質を極めようとした「絵画の擁護者」だった。

 一方、ドガはマネと異なり、伝統的な権威あるサロン展に対抗し、印象派の若い画家たちが集まって1874年に始めた通称、印象派展に毎回出品した。そのため古典的絵画に反抗する好戦的な印象派の画家との烙印が押された。つまり、印象派の画家の急先鋒のように言われた。

 ところが、デッサンの魔術師といわれたドガは、印象派の多くの画家が夢中になった光、色彩、自然が人間に与える「印象」ではなく、あくまで身体の動きに注目し、デッサンとフォルムの堅牢性に支えられた絵画制作に没頭した。

 同展では、ドガは印象派に加担しながら、本質的に印象派を代表するピサロやルノワール、モネのようなアプローチはしていないと指摘する。

 つまり、マネ同様、印象派に影響された側面はあったものの、結果的には印象派を越えた具象絵画を描く新しいアプローチをそれぞれ探求し、どの美術運動や様式の分類にも当てはまらない独自の画境を見出した。このことで歴史に巨匠としての足跡を残したと同展は結論付けている。

 西洋美術が追求してきたフォルム、奥行き、質感、デッサンの正確さなど、古典絵画技法の基礎をしっかり踏襲しながらも、新しい絵画を生んだという意味で、2人は西洋絵画の正統派といえる点に同展は注目している。

 2人のフランス人の巨匠の試みは、美の追求にあり、絵画に新たな命を吹き込むことで共通点を持つ。それは極めてフランス的であると同時に芸術の普遍性を体現したものだったとも言えそうだ。21世紀、改めて絵を描くことの意味が問われる中、2人の巨匠の残したものの意味が光を放っている。