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 聖書には旧約、新約を通じて「汝殺すなかれ」という聖句がそれぞれに出てきます。旧約聖書では出エジプト記にモーセが神から与えられた十戒の6番目に「汝殺すなかれ」とあります。次は新約聖書のイエス・キリストの言葉として「汝殺すなかれ、殺されるなかれ」とあります。

 いずれも神と人間の関係において、道徳的に示されたものです。しかし、旧約だけを信じるユダヤ教、イスラム教、イエスを救世主とするキリスト教を信じる人々も戦争を繰り返し、殺戮は正当化され、今でもウクライナ、イスラエルの紛争は、これら3つの宗教が深く影響を与えています。

 アメリカ外交の基本はやられればやり返すというTit for tat、すなわち、しっぺ返しのゲーム理論である報復的正義が基本です。9・11米同日多発テロ後のタリバンが潜伏すると思われるアフガニスタン攻撃は、報復的正義によって行われました。この戦略は終わりのない戦いの繰り返ししかありません。

 神は十戒をイスラエル民族に与えた後、ヨルダン川を渡ってカナン族を滅ぼすように命じます。それもかなり残酷な征服と虐殺、死刑を含む厳格な刑の執行、奴隷や女性差別に関する記述は、宗教的背景や歴史の文脈を理解しなければ、十戒と矛盾するように見えます。

 これは、しばしば1神教に対する野蛮性、非文明性として批判され、特にユダヤ教、イスラム教が異教徒に対してとる極端に差別的な態度が、不平等、不公正、不道徳と今でも疑問視されています。

 一方、新約の『マタイによる福音書』5章38-39節に登場するイエスの「汝殺すなかれ、殺されるなかれ」の解釈は多少違います。その意味は復讐や悪に対して寛容であること、相手に慈悲を示すことと解釈され、「右の頬を打たれれば、左の頬を出しなさい」「汝の敵を許し、愛せよ」とも言っています。

 これはキリスト教の教義の核心に位置づけられ、高い目標となっていますが、あくまで目標、理想であって、人間は憎しみの感情を克服できずにいます。キリスト教では堕落して神の元を去った人間が許しを請うのが信仰の基本で、カトリックでは祈りにしばしば登場します。

 西洋社会は、これを文明の進歩と言い、もし、許しと寛容がすべての人間に拡がれば、公平で平等な社会が実現できるという基本的認識を持っていますが、文明が成熟していない分だけ、差別や憎悪が社会から消えないと考えられています。

 ここで問題になるのは境界です。民族や人種の境界、宗教の境界、国の境界、個々人の人間の境界が対立や憎悪を生み、戦争や紛争を繰り返してきました。

 民主的な自由社会で評価の高い北欧スウェーデンの学校現場に導入されている共感プログラムは、自分を大切に思うことで、他人を傷つけない人間をつくるというプログラムで、いじめ撲滅のプログラムとして、ヨーロッパ中に拡がっています。

 自分がして欲しくないことは他の人にもしないということですが、基本は人種、民族、宗教、国籍などの属性を取り払った「同じ人間」という出発点に立つことです。白人中心のスウェーデンも100年前には白人優性政策がとられ、異人種に対して強制妊娠中絶を行った暗い過去もあります。

 今、世界中の多くの若者がイスラエル軍によるパレスチナ民間人の大量虐殺を非難しているのは、SNSによって過去のいかなる時期より人間関係が深まった結果、同じ人間として共感できない不快感を持つ時代に入ったことを意味すると考えられます。

 国益も民族を守ることも重要ですが、だからといって他国や多民族を傷付けていいという論理は正当化できないはずです。それでは悪には打ち勝てないという理屈もありますが、そのためには国際協調と対話の継続は必須でしょう。