graduation-book-education-

 グローバルプレーヤーには高い見識が必要と、何度かこのブログに書きました。その意味は必要だから学ぶのか、それとも生きて行くうえで悩んでいるからか、さらに好奇心から知識教養を増やしたいという自然な心の要求からなのかは、ハッキリしておくべきです。

 私は知識教養主義の家で育ったために、ある種のアレルギーを持っています。ある方が「知を差別を生むが、心情の世界に差別はない」と言っていたのは的確な指摘と考えています。知識教養主義へのアレルギーは、それが差別を生む権威主義に繋がっていたからです。

 つまり、物事をたくさん知っている人が偉いという考え方で、知の財産をいっぱい持っているから偉いという意識です。ところがスマホで何でも答えがある程度得られる時代に入り、知識教養主義は色あせています。お隣の国韓国では今も大学教授が特権階級のようですが、日本はその時代は終わっているかもしれません。

 そもそも知識教養主義が権威主義に陥ったのは、知識教養をアクセサリーのように考え、沢山、高級アクセサリーを身に付けていることで他を圧倒しようという、きわめて卑しい動機があったからでしょう。

 これは、学ぶことの本末転倒です。それが起きる大きな原因の一つは、子供のころから意味も目的も説明されないままに、勉強させられたことにあると私は見ています。つまり、日本史や世界史などを学ときに、自分との関係はどうでもよく、年表を丸暗記するのが受験勉強との考えは今でもあります。

 かつて有名な編集者と仕事をしていて、彼は東大教養学部出身でしたが、受験勉強のやり方として記憶が重要な地歴などは、入学試験直前に丸暗記し、入試が終われば、全部忘れたといっていました。結果的に記憶力は磨かれ、持ち前の脳の処理能力の高さで有名雑誌の編集長にもなりました。

 しかし、多くの優れた作家や学者を支える編集者でしたが、問題意識が高いとは思いませんでした。銀座のクラブを飲み歩く以外、大した趣味もありませんでした。体から染み出してくるような文化教養は感じませんでした。

 東大法学部で司法試験に取り組んでいた学生と社会問題について議論していて、彼は「教授から人生や社会問題に悩んでいたら司法試験には通らないと言われた。だから疑問が湧いても考えないようにしている」と言われて驚いたことがあります。

 今後は沢山知識があるだけではビッグデータには勝てないでしょうし、処理能力もAIの方が短時間で成果を出せる時代に入っています。それでも勉強し、本を読む理由は、自分に動機が必要です。つまり、自分との関わりが学びの原動力となることで、アクセサリーではなく自分の血となり肉となるという話です。

 AIやビッグデータは、ウクライナ危機や中東戦争を収拾出来ていません。理由はデータ量の多さや処理能力の速さだけでは問題解決はできないからです。自分とのかかわり、自分にしかない動機から習得する知識教養以外に問題解決の力はないからです。

 物知りで他を威嚇することはできても、成果は出せないということです。新約聖書に「求めよ、さらば与えられん」とあるように、心の底から求める姿勢さえあれば、心の渇きを潤すために苦痛なく、自然に知識を増やしていくことができるということです。