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 昨今のダイハツはじめ、大手自動車メーカーに起きた義務化された安全基準の検査を省略したり、データを改ざんする行為は、消費者と株主を裏切る違法行為として社会的批判を浴びています。これはコンプライアンス、企業のモラルが問われている事例で、利益を上げるために利用者の安全を軽視する態度です。

 そこで問われるのは巨大化、複雑化するビジネスから、個人のプライベートに関わることまで、21世紀のモラルの行方が問われています。一方でSDGsやESG投資など、公益性を重視するものが重視されていますが、これらが皮肉にも利潤追求を最大化する企業活動の持続性を妨げる現象も起きています。

 世界を巡った個人的見解からすれば、世界一と言われるアメリカのプラグマティズム(実用主義)と日本式プラグマティズムには根底に流れているものに大きな隔たりがあります。

 日本式プラグマティズムは宗教をご利益と結び付けているのが特徴で、有名な近江商人の三方よしは、「売り手によし、買い手によし、世間によし」とあり、最後の世間によしは社会貢献に繋がるもので商売にも公益性が必要と説いています。今でも日本企業のDNAに流れています。

 ビジネスには自己中心の非道徳的側面が付きまとうわけですが、世間すなわち社会のためになっていること、すなわち公益重視の考えがあるわけです。日本人からすれば、この精神があるから問題ないというわけですが、その道徳的行動を規制する「社会」あるいは「世間」に問題があれば、自動的に企業も問題を抱えることになります。

 例えばいい例は自民党の金と政治の問題です。政治家が金で腐敗していると言いますが、世間が金で動いているとすれば、政治家はそれに答えているだけです。日本では個人と組織が同一に考えられ、独立した市民としての有権者の票より、組織票が物を言うのも企業の利益のためです。

 世間が正しいかどうかの検証なしに「世間よし」という辺りは,きわめて日本的で普遍的な善悪より相対的な現実のモラル優先というわけです。江戸時代に士農工商にある商人を卑しい存在としたのも、日本式プラグマティズムが相対的な人間関係を根拠にしているのもうなづける話です。

 一方、アメリカのプラグマティズムは、功利主義から来ており、ルーツは18世紀にベンサムによって提唱され、その後、J・S・ミルらによって発展しました。「最大多数の最大幸福」というスローガン
があります。アダム・スミスやケインズ経済学にも見受けられます。

 西洋人は長い間、イエス・キリストが商人が天国に行くのは難しいという発言に苦しめられ、金儲けは人間に損得の不平等を産み、不道徳な行為という考えを抜け出すのに苦労しました。

 分かりやすい例をいえば、キリスト教の一派であるモルモン教には10分の1献金しています。聖書にしばしば出てくる神への献金は教会を通じてなされるわけですが、聖書には「神は喜んで与える人を愛してくだる」と明記され、「喜び」は「救いの喜び」に通じるもです。

 モルモン教は10分の1献金を徹底していることで知られていますが、金儲けすればするほど神を喜ばせられ、献金した者は救いの喜びを得るという事で、経済活動との矛盾に折り合いをつけていることになります。霊界の様相を説いた神秘主義で知られる宗教学者スウェーデンボルグは「金持ちは天国いけないというのは誤り」と指摘しています。

 アメリカのプラグマティズムも功利主義も、こういったキリスト教の教えに繋がっており、社会の弱者を助けるための富裕層に定着している寄付文化も、そこからきています。この慣習は日本では東日本大震災までは希薄でした。

 日本の場合は、宗教と経済活動の矛盾で悩むことは少なく、商売繁盛、ご利益をもたらすために宗教も存在している側面があります。運勢という独特の東洋の考え方も深く東洋人には定着しています。

 宗教とビジネス、モラルとプラグマティズムの関係は今、何でもありの伝統破壊のリベラル化が世界的に進む中、論じられることもなくなりました。どんなに地球温暖化で不都合な現実があっても経済発展を優先しているのも宗教やモラル、公益性の意識が希薄だからでしょう。

 その意味ではダボス会議で何を話し合ったとしても、それ以上に資本主義やプラグマティズム、さらに宗教の存在価値について、大きなリセットができる理論が必要な時が来ていると言えるかもしれません。特にご利益宗教の日本の行く末は気になるところです。